「お前マジか、冗談だろ? さすがにこれは笑えねーよ」
「こっちだって笑かすつもりは毛頭ない。笑ってんのは何故か当の本人だ」
「…頭の螺子外れてる?」
「正気じゃとても抗えない」
そんでお前も今日から仲間入り、と画面を眺めたまま剣菱の肩を叩いたら、ふんふんと鼻歌を歌いながらやって来た桐子がトレーに水の入ったグラスを乗せて剣菱の前に差し出した。
今日も今日とて、創作が捗ったのかもしれない。アトリエに入った瞬間鼻を刺す独特の絵の具の匂い、それは中学の頃美術室で感じたあの匂いと同じだが、今日は比較的まだマシだ。
ひと段落して換気をしたか何かだろう。住宅地の高台にぽつりと存在するここでは悪臭被害を叩かれないのが幸いで、それでも初めてこのアトリエに足を踏み入れた剣菱は俺の後ろで一瞬、残り香に眉を顰めていた。
「え、っと」
「あ、桐子でーす。青磁がいつもお世話になってまーすきゃはっ とか言ったほうがいいか?」
「黙ってしおらしくしててくれ」
「ど、どーも! 青磁の友人の剣菱です」
「おーおー! お噂はかねがね! 桐子でいいよ。きみのことは略して剣ちゃんと称そう」
「距離の詰め方が外人」
なんか思ってたのと違う、と助けを乞うように俺を見られても気にしない。この時、実に剣菱と桐子が顔を合わせるのは初めてで、だからそれがこんな形になってしまったことを少し後悔はしたけれど、剣菱の中で勝手に膨れ上がっていた理想の東海林桐子像に関して此方が責任を負う義務は一切ない。
ただ、何度も男を呼び出す、自分からは(滅多に)出向かない、画家、食事の誘いにノリが悪い、のこの四拍子を前にどこか敷居が高い女性であることを、話に聞いているだけでは想像してしまっても無理もないのかもしれない。
そしてその滅多を今日に限って果たしてくれた。人が望んでない時にだ。
「…なんで大学に来たんだ」
「今日のは青磁が悪い。私が連絡しているのに既読無視をするからだ、仮に急性症状が出て死んでたらお前は一生後悔したぞ」
「花餌にそんな事例ないんだよ。ピンピンしてる癖に適当なこと言うな」
「ちょ、ちょちょちょい待ち」
今にも口論に踏み込もうとする俺と桐子の間を剣菱が割って入る。縁の分厚いウェリントン型の眼鏡を押し上げて、恐る恐る桐子を見た。
「………い、いつから?」
「…」
「明確な日はわからない。痣を視認した日と進行具合から発症一ヶ月程度、って見込んでる。病院に行かないのは桐子の意向だ。だから俺が記録してる。初手は肋骨の痣だった。桐子から話を聞いてまだ二週間しか経ってない所を見ると…進行が思ったより速いな」



