森さん達につめよられた時、雨に当たって濡れてしまった私は、そのまま熱を出して二日間学校を休んでしまった。
 その間、ぼんやりする意識の中で私は悠馬とのことを考えた。
 悠馬の口から他に好きな人がいるって言葉を聞いたなら、私がやらなくちゃいけないことは一つだ。
 本当はあのデートの日に言うつもりだったこと。
"もう、終わりにしよう"
 それを悠馬に伝えなくちゃ。
 私はあのデートの日の悠馬を何度も何度も思い返した。
 あの日の悠馬は本当に完璧な私だけの王子様だった。私だけを見て、私のことだけを考えてくれてるような…。
 悠馬って、本当に罪つくりなやつ。
 あんな風にされたら、誰だって勘違いしちゃうよ。もしかしたら、私のことが好きなのかもって。
 いつかは言ってやらなくちゃ、あれはダメだよって。そう、いつか…。
 …でも今はまだそんな冗談を言える自信は全然ない。きっと、私の気持ちに気づかれないように、泣かないでお別れを言うのが精一杯なんじゃないかな。
 夢の中で、"るり"っていう悠馬の声を何度か聞いたような気がした。
"るり、ごめんな"って。
 謝らないで、悠馬。悠馬は何も悪くない。
 私、悠馬の彼女になれて、楽しかった。
 すごくすごく、楽しかった。
 それに…大切なこともおしえてもらった。
 悠馬がくれた初めての恋は、たとえ実らなくてもきっとずっと胸の中で輝き続けるんだ。
 私はそれを大切にして、私のやるべきことをやるね。
 それが私に初恋をおしえてくれた悠馬にできる唯一の恩返しのような気がするから…。

 ようやく熱が下がった三日目の午後、悠馬が家に来た。
 パジャマのままで髪はボサボサ、ちょっとどころじゃなくて相当恥ずかしい格好で私は悠馬を出迎えた。
「体調は大丈夫?」
 私の部屋に入って、ベッドに隣り合わせに座ると、まず初めに悠馬がたずねた。
「うん、もう大丈夫。明日からは学校にも行けるんじゃないかな」
 いつもより元気がないように見える悠馬に、私はなるべく明るく言った。
「…その風邪も俺のせいだ。本当、ごめん」
 また謝る悠馬に私は首を横にふった。
「悠馬のせいじゃないってば。元はと言えば私が、傘をささないでゴミを捨てに行ったのが悪いんだよ。もう謝るのはやめて」
 本当に、こんなに弱気な悠馬は、悠馬らしくないと思う。
 いったいどうしちゃったんだろう?
 悠馬がため息をついて話し始めた。
「俺、るりがつきあってることを内緒にしようって言ってたこと、軽く考えすぎてたんだ。べつにバレてもいいじゃんって。誰が何をしようと、自由なんだから」
 私はうんとうなずいた。
 悠馬のその考え、私は好きだな。
 でもそれじゃ都合が悪いこともあってそう簡単にはいかないこともあるんだよね。
「でもそれは俺の場合で、俺は平気でもるりの周りはそういうわけにはいかないんだ。…それがよくわかったよ」
 そう言って悠馬は眉を寄せて目を閉じた。
「…悠馬?」
 私が呼びかけると悠馬は小さくため息をついて私をじっと見つめた。
 そういえばデートのときも悠馬は何かを言いかけて今と同じように私を見つめていた。
 あの時は、まるでジークフリード王子がオデットに愛を告白する前みたいだなんて思って、胸が高鳴ったっけ。
 でも今から考えると、あれはやっぱり都合のいい私の妄想だったんだ。
 だって目の前の悠馬は、とても愛を告白する前なんかには思えない。それどころか、苦しくて思いつめて、まるで何か悪いことを言おうとする前みたい。
 その目を見つめているうちに、突然私の中にある考えが浮かんできた。
 もしかして悠馬も、私と同じこと考えてる?
 その私の予想は当たっていた。
「るり、別れよう」
 悠馬は言いにくそうに、でもはっきりとした言葉で言った。
 あぁ、やっぱり。
 私は目の前が暗くなるような気分になった。自分で言おう言おうと思っていた言葉を先に言われた。ただそれだけのことなのに。
 胸がずきんずきんと痛んで、今すぐに泣いてしまいそうだった。
 嫌だ嫌だって、小さい子みたいに駄々をこねて、そんなこと言わないでってすがりつきたい。
 少しだけ、森さんの気持ちがわかるような気がした。
 好きな人に、拒否されるってこんなにつらいことなんだね。好きなんだ、大好きなんだって想いを誰にも受け止めてもらえないってこんなにもむなしいものなんだ。
 私は悠馬の視線から逃げるようにうつむいた。胸にある全部の気持ちを、悠馬に見られたくなくて。
 今ここで泣いてしまったら、もう悠馬とは友達でもいられなくなる。もう今までみたいに気楽に話しができる幼なじみではなくなってしまう。
 しかも悠馬のことだから、私が悠馬のことを好きになっちゃったって知ったら、私のことを傷つけたってまた自分を責めるかもしれない。
 それだけは、絶対に嫌だった。
 悠馬は自分の恋を後回しにしてでも私に力を貸してくれた。私を元気づけて、バレエを取り戻すきっかけを与えてくれた。
 その悠馬に悲しい思いをさせるなんて、絶対にできない。
 私は頬に力を入れて精一杯の笑顔を作る。そして出来る限り明るい声で答えた。
「そうだね!それがいいかも」
 悠馬が少しだけびっくりしたみたいに私を見る。
 ちょっと元気よすぎだったかな。不自然だったかも。でもそれは許してほしい。だって私の本当の気持ちじゃないんだもん。
 私はがんばってもう一度笑顔を作った。
「悠馬のおかげでばっちり初恋体験ができちゃったよ。…森さんたちに睨まれるっていう、おまけつきだったけど、恋にライバルはつきものなんだから、それはそれでリアルな感じがでてよかったよ。ありがとう、悠馬」
 私の言葉に、悠馬は一瞬何かを言いたそうに口を開く。でもすぐに閉じて、私と同じように微笑んだ。
「役に立てたみたいでよかったよ。初めは、るり、弟にドキドキするもんかって言ってたから」
 弟かぁ、そんなふうに思ってたときもあったなぁ。今から考えるとすっごく遠い昔のことみたい。
「まぁ、弟っぽい感覚が全然なかったとは言わないけど、でも学校の女の子たちが王子様ってさわぐ気持ちもわからなくはなかったかな」
 私は精一杯の嘘をつく。
 本当は弟なんてもう全然思ってない。悠馬は誰よりも私をドキドキさせてくれる最高の彼氏だった。
「やっぱりまだ弟っぽいかぁ」
 悠馬がちょっと残念そうに言う。
「でも、こんなことお願いできるのは悠馬くらいだったから、それはそれでよかったんだよ」
「るりが元気になって良かったよ。いつも俺と健二を引っ張ってくれる元気な姉ちゃんだったからさ。これからも今までみたいに俺と健二の姉ちゃんでいてくれる?」
 そう言って微笑む悠馬の笑顔に私の胸はしめつけられるみたいに痛んだ。
 その胸の鼓動が姉ちゃんなんかじゃないって叫んでいる。そうじゃなくてか彼女がいいんだって。…でもその叫びに私は気がつかないフリをした。
 そんな気持ち、悠馬にとってはきっと迷惑でしかない。
 私はにっこりと笑って、うなずいた。
「もちろんだよ」