僕たち人は、


"永遠"というものを知ることはできない。




花や木はいつかは枯れ、


命あるものはやがて消える。




雲や風、水も同じ姿を留めることはなく、


常に形を変えていく。




人が夢見る不老不死も、


まだこの世にはない。




そんな世界の理が、


僕らの魂には刻まれている。




だからこそ、僕たちは


"永遠"を許されない世界の中で、


この世の儚さや虚しさ、美しさを知って


生きていくのだろう。




ある時誰かが言った。




"終わり"があるから、


桜の花の散る美しさを僕たちは知る。




"終わり"があるから、


僕たちは大切な人との


別れとその悲しみを知るのだ、と。




それが、"永遠"のない世界で


生きることの意味だという。




もし、全てが永遠に続き、


満たされた世界なら、


何かを失う悲しみも、


落胆する絶望や虚しさを


知ることはきっとない。




それでも、僕たちは、


"永遠"のないこの世界で


生まれて生きることを選んだ。




色んな人と出会っては別れ、


多くを得ては失い、


様々な色に染まって


姿を変えていくこの場所で。




この足で立って生きることを選んでいた。




こぼれ落ち、蓄積していく


砂時計の砂のように、


限りある時間の中で、


僕たちは自ずと何かを残していく。




地位や名誉、財産?


目に見えるものだけじゃない。




たくさんの想いや言葉。


例え目に見えるものじゃなくても、


生きていた証をどこかに残して、


最後はこの世界を去っていく。




そして、人は時に想いを巡らす。



終わりの先にある、


"永遠"のない世界から、


"永遠"の世界に還ったとき、


その人と再び会える日を、待ち望む。




それまでは、


この限りある時間の中を、


歩き続けていく。




"悲しみ"や"涙"も、


"永遠"に続くことはない。




だから、暗闇の中でも


僕たちは自ずと立ち上がって、


前を向くことができる。




この"理"に敷かれた世界で、


僕たちは何を見、何を感じて、


何を残していくのだろう。




全てが手探りの中、


僕たちは"永遠"のないこの世界で、


生きていくのだろう。