レイノルドは重いため息をついて、彼女の手を取った。

「王族用の特等個室に案内する。そこでゆっくりしよう」
「はい」

 一転してにこりと笑ったルクレツィアから視線を外して、レイノルドは階段を上る。
 その途中、吹き抜けの手すりが気になった。

(懐かしいのはあそこか)

 よく覚えていないが、昔あそこから降ってきた何かを抱きとめた記憶がある。
 ピーコックブルーのひらひらした蝶のような、いや赤い薔薇の花びらのような――。

(思い出せない)

 ズキンと頭が痛んだので、レイノルドは考えるのをやめた。

 王族のために設置されている個室から観るオペラは素晴らしかった。

 座席が暗いのをいいことに、ルクレツィアがレイノルドの手を握ろうとしなければもっと楽しめただろう。
 暗がりの奥で動く白い指がただただ気味が悪かった。

(疲れた……)

 レイノルドは手洗いに行くと嘘をついて個室を出た。

 このまま、ふらりと行方をくらませたい。
 もしも次期国王の期待をかけられなかったら、誰も自分を知らない田舎で、その日の食い扶持だけ稼いで生きたって別によかった。

 階下の休憩室に向かおうとしたら、エントランスロビーがざわついた。

(なんだ?)

 階段から身を乗り出してのぞき込むと、ひらりと大輪の黒薔薇が揺れて、思わずゴクリと喉を鳴らした。

 揺れたのは花ではない。
 客席から歩いてきた令嬢の、黒一色のドレスだった。

 レイノルドと同じく花と見間違ったのだろう。

 周囲の人々は、縫い付けられたかのようにその漆黒を凝視し、はっと気づく。
 肩やデコルテを大胆に露出した煽情的なドレスで、人々を虜にする令嬢の正体に。

「マリアヴェーラ・ジステッド……」