持ち上げられたカップは、れいノルドの口元に運ばれることなく、預言の書の上で逆さになった。
 紅色の液体が、インクの乾ききらない紙面に落ちる。

「あ……」

 紅茶は、平らにのばされた繊維に染みこんでいき、預言を紅色に染めた。
 インクは滲んでページ全体に広がり、何が書かれていたのか読めなくなる。

「――あんたが恋を守るために悪女になるというなら、あんたのことは俺が守る」
「レイノルド様……」

 マリアは、とくんと鼓動を揺らした。
 震える己の残酷さ。それをもレイノルドは受け入れてくれる。
 彼のまっすぐな愛情は、自分を責めていたマリアの心に強く絡みついて、うなされそうな熱を放つ。

「たしかに、火傷してしまいそうですわ」 

 薄く笑うマリアは預言の書を閉じた。
 レイノルドは、カップを置いてテーブルにのせられていたマリアの手を握った。

「やっと落ち着いて会えるようになった」
「言われてみればそうですわね。春からずっと苦難続きでしたし、聖女の問題が片づいてからも、側近の体制が見直されたり宣誓が行われたりして、常にお忙しかったでしょう。お手紙で近況をお聞きして、レイノルド様が倒れてしまわないか心配しておりました」

 二人の文通は再開した。
 興味深く思った事柄やお互いの日常を書き記した手紙は、多いときには日に二度、宮殿とジステッド公爵家を往復する。
 文面も変わった。これまでとは違って『好き』や『愛してる』といった愛の言葉が並び、いかにも愛し合う恋人が交わす恋文になっていった。

 マリアが求めなくても、レイノルドは自然にそうなっていった。
 本気で誰かに恋していると、人はそういう風になるのかもしれない。

「こうして適度にサボっているから平気だ。もしも嫌でなかったら、また一緒に出掛けないか」
「よろしいのですか! わたくし、レイノルド様といられるだけで嬉しいので、どこにでもお供いたしますわ。どこへ行きましょう?」

 ぱあっと顔を明るくしたマリアに、レイノルドはハートのチュロスをくわえさせて微笑んだ。

「どこでもいい。あんたが俺のものだって見せびらかしたい」
「!!? もぐもぐぐぐ(見せびらかす)!?」
「ははっ。あんた、相変わらずかわいいな」

 からかわれるうちに太陽は傾き、緑の間から吹き込む風によって、暑さは流れていった。

 いつかまた、二人の間には大きな困難が訪れるだろう。
 それは破滅の預言のように、どんな形で降りかかってくるか分からない。
 いずれ国王となる第二王子と高嶺の花である公爵令嬢の間を壊そうと、虎視眈々と狙っている者はいくらでもいる。

(守ってみせるわ。たとえ悪女とそしられようと)

 レイノルドといたければ、マリアはもっともっと強くならなければならない。
 人を傷つけても心が痛まないくらい鈍感で、誰かの謀略に巻き込まれないように鋭敏な貴婦人へと成長していかなければならない。

(だけど、今だけは――)

 マリアは、ぽうっと熱に浮かされた顔で、微笑むレイノルドを見つめた。

 だけど、今だけは、甘く優しくとろけるような恋に溺れていたい。

《完》