その夜、マリアは馬車に揺られていた。
 ハートの木がある丘の下で降りて、トランク片手に坂道を上っていくと、木の前で黒いコートを着たレイノルドが待っていた。
 彼はマリアに気づいて、ほっとした表情を浮かべる。

「無事に抜け出せたんだな」
「ええ。お母様が表に出してくださったんです」

 母には、父の怒りがおさまるまでコベント教授の元で過ごしたいと話した。
 コベントにも『父に幽閉されそうになったので第二王子が手配した部屋に移るが、母には心配をかけたくないので教授の下にいると口裏を合わせてほしい』と連絡した。

 どうせ父は使用人に命じるばかりでマリアの様子を見にこないので、誰もいない部屋を釘で閉じておくだけでいい。

「手紙に、辺境に行くと書かれていて驚きましたわ。いつ頃ですの?」
「まだ出発日は決まっていない。だが、このまま行くと一月後には……。詳しくは、部屋についてから話す」

 レイノルドは、トランクをマリアの手から取り上げると、丘を下りて下町に入った。マリアは、頭から薄布をかぶって知り合いに用心した。

 酒場や宿屋が並んだ通りは、店先から漏れる光で暗くはない。
 しかし、マリアの警戒心は、檻に入れられた猛獣を前にしたときのように強まっていった。

(ここは、いわゆる盛り場というところだわ)