午前9時。シアトル系コーヒーショップは朝の散歩を終えたらしい初老の女性や、退職して朝の時間を優雅に楽しむ贅沢さをまだまだ享受したての初老の男性がちらほらとあちらこちらの席で寛いでいる。もう少ししたら、営業の途中で寄り道しているらしい人や早めの習い事を終えた主婦が増えて、ランチタイムを迎え、それから少しすれば子どものお迎え前の母親たちや、休講を持て余したか早めに学校を終えた学生たちが席を陣取り始めて…。その後はよく分からない。たぶんまた営業途中のビジネスマンや、買い物帰りの主婦や、夕食の時間前の忙しい時間に家にいられない男たちがいるのかもしれない。

   彩佳(あやか)はスマートホンから目を上げて持参した蓋つきタンブラーへ手を伸ばす。そのマイタンブラーは先日海外から帰ったばかりの独身の友人からの台湾土産で日本では売っていない。彩佳の長い指はジェルネイルで飾られていて、そんな爪でよく家事ができるねと実母に言われたことがあった。実母は先ごろ実家を二世帯住宅に建て直して弟夫婦と別所帯で住んでいる。玄関も別、キッチンも別、お風呂も別についているのに、こんなことなら止めたらよかったと年中こぼしていて、彩佳は面倒くさいから最近は電話もしない。

 上昇志向の強い娘だと母は言う。公立高校への進学を進められたけれど、制服が可愛くて人気のある女子高への推薦をもらって進学した。父親は地方工場の事務をやっていて自宅から車で通勤していた。贅沢のできる家庭ではなかったけれど、父親は娘可愛さにいいよ、いいよ、と私立高への進学に反対をしなかったのだ。弟は昔から堅実な子だった。中学、高校、大学も公立を狙ったけれど残念な結果で、私立大学を選んだけれども地元から通える私立大学へ通って公務員になった。もう一浪したら国立へ行けたかもしれないし、東京の名の知れた私大へ行けたかもしれないけれど弟がそうしなかったのは「あんたにお金かかったからだ」と母親は言う。

 彩佳は東京の短期大に進学して、短大生活を楽しむか楽しまないかですぐに就職活動だった。一流の会社に入れなければ、一流の夫を見つけることはできない。彩佳が思い描いている理想の生活はできないのだ。

 約一年半かけて大手通信メーカーの子会社への就職を果たしたけれど彩佳は夫を会社からは選ばなかった。「子会社」とか「出向」とかそういった言葉の中に埋もれていく自分の理想。いずれにしても彩佳が思い描く夫の像は少し違うようだった。

 短大時代の友達や、会社の同期や、それこそ出向の社員の伝手で所謂合コンがあるときには断らずに出席した。その時に付き合っている彼氏がいたとしてもだ。

 そうやって苦労して築き上げたのが、今の自分なのだ。上昇志向?それの何が悪いのだ。

 彩佳はタンブラーに添えた自分のジェルネイルを検分する。薄い水色のベースに不揃いな白いラインが描かれているそれはまるでリゾートホテルのプールの水面のように見える。ところどころに金色の小さなラインストーンがおいてあった。人差し指についたそれをそっと親指でなぞる。

 スマホがほんの少し薄暗くなる。そうするとなぜか急かされた気持ちにになり、通知のないラインアプリを立ち上げて、上から下までスワイプして、ママ友たちの花や子どもの写真のアイコンとともに並んでいる夫のアイコンをタッチする。最後の一行の「飲み会」という三文字は一昨日の日付だ。最近は何もない日には「これから帰る」の一言もないことも多かった。不仲という訳ではない。なんとなく忘れてしまった、何となくそれでよくなった、その程度のことだ。そしてまたラインアプリを閉じて、なまぬるいカフェラテを一口飲む。

 今度は理想の夫というものについて考えてみる。彼と結婚したのは、まず見た目が"ムリじゃなかった”し、それからたぶん何よりも将来性だ。一流会社の東京本店勤務で、営業技術部の海外担当、その肩書だけで十分”自分の夫”として遜色ないと思った。彼は再婚だったけれどそのことは家族にも友達にも内緒にしておいたし、今でも家族と昔からの友達のごく一部にしか言っていない。彩佳は専業主婦で、毎年夏には海外旅行に行ける、お正月は日帰りでどちらの両親にも挨拶に行って、子どもの習い事も十分やらせてあげられる。理想の夫だ。

 ラインに通知が入ったので確認してみるとママ友グループのひとつで先週の宿泊学習の出発の時に撮った写真だった。4,5人の男の子が波打つように肩を組んでいる。その前や横や後ろに飾るように女の子が笑顔で親指と人差し指でハートを作るサインをしていた。彩佳は肩を組む男の子の中の一番背の小さな男の子をじいっと見る。息子の慧斗(けいと)だ。慧斗が小さいのは好き嫌いが多いからなんだろうか。慧斗の肩に腕を乗せているのは一番仲良しの遼平君で、頭いっこは背が高い。それに、慧斗の隣にいる女の子は幼稚園も一緒だったヒナタちゃん、ヒナタちゃんは女の子の中でも標準的な背だったと思うけれど、そのヒナタちゃんよりも小さく見えるのは慧斗が肩を組んでいるせいで姿勢がまっすぐでないからかもしれない。いずれにしてもまだまだ子どもなのだからそのうちに、そう思うけれどそれ自体なんだか気休めにも思える。

 写真をアルバムアプリにダウンロードして、アルバムをスワイプした。なんどか指先を滑らせると昨年の夏休みの旅行の写真が大量に出てくる。似たような写真ばかりがある。例えば、慧斗と夫がホテルのプールサイドで水着で笑っている。その右横にはアルミのテーブルがあって、背の高いグラスに入った青い飲み物が置いてあった。いかにも南国リゾートに来ています、というその写真を、彩佳はFB(フェイスブック)に載せた。たった一言「なう」と書いて、いつもは友達の友達までの公開だけれど、その時はあえて「全公開」にした。夫の”女友達”だか”部下”だかが「見たらいい」と思ったからだ。その投稿を見たのか、見てないのか、見ないふりをしているのか、いずれにしても、何かが変わった様子はない。アヤシイと言えばアヤシイし、気のせいといえば気のせいで済ませられる。──今は、まだ。

 彩佳はまたアルバムをスワイプして最新の写真を眺めた。最新から二枚目、三枚目、と慧斗の写真を見る。慧斗の目はたぶん彩佳に似ている。眉毛と鼻は夫に似ている。一か月位前だったか、もう少し前だったかもしれない、プールの後に撮った写真を見てそう彩佳は改めて思った。プールバッグを抱えて待合のベンチに座っている慧斗は疲れているのかぼんやりと口をあけてこちらを向いていて、その写真はいつも家にいる慧斗に近い顔をしていると思う。

 二月のマラソン大会の写真まで遡る。慧斗と遼平くんが同じ色の鉢巻きをして並んでいて、その写真は珍しくふたりとも大人しく立っている。まるで兄弟のようだ、とよく言われる二人が如実に現れているような写真だった。
 2月には塾のクラス分けテストがあった。「リョウくんと同じクラスだといいけどな」と慧斗は塾用のリュックに筆箱を押し込みながら言っていた。今回は同じクラスになったけど、次のテストでは分からない。もっと先はもっと分からない。ふと、遼平君ママのおかっぱ頭を思い出した。

 遼平君と慧斗はとても仲がいいけれども、遼平君ママと彩佳は仲良しな訳ではない。遼平君ママは仕事をしていてママ同士のランチなどにはあまり顔を出さないし、行事などで会ってもあまり話すことはなかった。

 遼平君のママよりは、翔真君のママとよく話す。翔真君は幼稚園の時に同じで小学校は違うけれど今は塾が一緒だ。翔真君のママとは、よく話すけれど、仲良しと言うのとも違う。周りからは仲良しと思われているんだろうけれども、仲良しな訳ではなかった。

 そこで、彩佳は「仲良し」について考える。仲良しなママと言ったら誰だろうか。── 誰だろうか…と考え始めた時、ふと隣のテーブルのテイクアウト用の紙カップに描かれたニコニコ顔のマークが目に入った。テイクアウトカップだとよくああしてニコちゃんマークやメッセージを入れてくれる。彩佳はまだつややかなマイタンブラーに手を伸ばした。日本では見ないデザインのタンブラーにクルーと呼ばれる店員は時折気づいて「海外の限定品ですか?」とにこやかに尋ねてくる。そういうとき彩佳は「すごーい、よくわかりますねえ」とにこやかに答えた。「台湾のトランジットでね」と、友達から聞いたまま答える。赤い鮮やかな花がデフォルメされて抽象的に描かれているそのタンブラーは、正直にいって彩佳の好みではない。けれど、日本では買えないものだし、友人のお土産だし、テイクアウトカップより様になるかな、と思って使っている。赤い花に一筋入った紫色のラインをなぞるように触れたジェルネイルが当たって乾いた音がした。カフェの騒めきの中に確かにその音を聞く。

 彩佳は指を折り曲げてジェルネイルの爪をじっと見つめた。カフェのペンダントライトがツクリモノの爪の面(おもて)に小さな光の環を作っている。太陽の光のような、それは嘘物でしかなくても確かに光っていて、プールの水面のような模様をキラキラと波立たせていた。専用のグルーで爪に乗せて貼るネイルチップとは違う、ジェルネイルはまるでもう自分の本当の爪のような感覚だ。ネイルを乗せていないむき出しの爪がひどく無防備に危なっかしい、そう自分が思っていることに気づかない程に、ジェルネイルは彩佳にとってごく当たり前に指先に存在する自分の一部分になっている。

 彩佳は自分の華やかな指先に満足する。

 テラス席の方から少し風が吹いて、少し早すぎたノースリーブの肩を撫でた。彩佳は肌寒さに少し眉を顰めこの春に買ったばかりの象牙色のバケットバッグに掛けてあったカーディガンを肩に乗せた。そうだ、このバッグはまだFBに投稿していなかったかもしれない。
 彩佳は新しいバケットバッグをテーブルの上に乗せ、何の花とも分からない赤い花が描かれているマイタンブラーと並べた。もう無意識に手にしているスマホを操作する爪が時折画面の上でカチリと音を立てるけれど、彩佳の耳には入らなかった。




                                  終わり