それから家に帰って、お風呂に入って、ベッドの中。
 わたしは天井を見上げて今日のできごとを考えていた。

 どこかで、あの人を見たことがあるような……?



 気がつくとわたしは教室にいた。
 藤代小学校じゃない。
 机も椅子も小学校のものより大きい。
 お隣の藤代高校かな?

 わたしは机に視線を戻して、ひっとなった。

 そこには、たくさんの悪口が書かれていた。
 「バカ」とか「死ね」とかびっしりと油性マジックで書かれていて、消しゴムでこすっても、とても消えそうにない。

 あんな話を聞いたからかな。
 これは夢だ。
 イジメを苦に自殺したって話を聞いたから、きっとこんな夢を見たんだ。

 机の文字がずるっと動き出した。
 わたしは慌てて立ち上がって、教室を飛び出した。

 長い廊下をひたすら駆けていく。
 ずいぶん走ったはずだけど、端にはたどりつかない。

 高校の廊下ってこんなに長いのかな……?
 ううん、きっと夢だからだ。
 藤代高校には行ったことがないけど、学校の廊下がこんなに長いはずがない。

 これは悪夢じゃないのかな……?
 いつまで経ってもパグが現れない。

 それとも、もう見捨てられちゃったのかな……。

「パグ……助けて……!」

 わたしはぎゅっと目をつぶった。



 キィン!!



 そのとき、金属がぶつかるような高い音がひびいた。

 わたしはそっと目を開ける。

「わりぃ、遅くなった」

「パグ……」

 そこには犬耳のついたぼうしをかぶって、剣で悪夢を押しとどめるパグの姿があった。

 パグはすばやい動きで悪夢を叩き切ってしまうと、わたしの手を取った。

「こっちだ!」

 パグはひとつの教室の中に入っていく。
 そこはさっきの教室と似ているところだった。
 黒板の前にひとつ教卓があって、たくさんの机と椅子が並んでいる。
 だけどさっきの教室よりは、ずいぶん明るかった。

 パグは、ドアを背にして、ずるずるとへたりこんだ。

「悪かったな、待たせちまって」

 なんだか今日のパグは変だ。
 いつもより、少し弱々しい。

「ううん、大丈夫……」

 本当はもう来てくれないんじゃないかって思った。
 どこまで走っても廊下に終わりは見えなくて、学校に誰もいなくて、世界にわたしひとりになっちゃったんじゃないかと思った。

 この世界でパグに見放されたら、わたしは本当にひとりだ。

 だけど、こんなに弱ってるパグを見たら、文句なんて言えない。

「怖かったけど……パグ、どうしたの……?」

 パグは目を見開いた。

 わたしはもう、パグが来たから大丈夫だ。
 それよりも、パグを元気づけてあげたい。
 不安なことなんか早く吹き飛ばして、いつもの強気な笑顔を見せてほしい。

 パグはがしがしと頭をかいた。

「……ここは、俺が通ってた学校なんだよ」

 今度はわたしが目を見開く番だった。
 パグが藤代高校の生徒だった……?
 ならパグは、わたしのすぐ近くに住んでたの……?

 パグは困ったような顔で、わたしを見上げた。

「いろいろ、嫌な思い出があってさ。ヒカリの夢に入るのためらっちまった。……いい思い出もあったはずなのに」

 そう言ってパグはまたうつむいてしまった。
 わたしは、なにも言葉が出てこない。
 はげましてあげたいのに……。
 年上の男の人をはげます言葉を、わたしは持っていない。

 気づいたら、手が動いていた。

「ヒ、ヒカリ……?」

 わたしは、パグの頭を撫でていた。
 パグは驚いた顔をしている。

 いつもパグに頭をなでてもらって、嬉しかった。
 パグも、そう思ってくれてるといいな。

「ありがと、な」

 パグは、されるがままになっていた。



「さ、食いに行くか」

 パグは頭にあったわたしの手を取って、立ち上がった。
 そしてそのまま歩き出す。

 わたしは今さらなんだか恥ずかしくなってきて、床を見ていることしかできなかった。

「今日はなにがあったんだ?」

 廊下には、さっきの影はいない。
 それでもパグは右手に剣を、左手にわたしの手を握ったまま、たずねてきた。

「悲しいことが、あったの」

 わたしはアカネちゃんの言葉を思い出していた。

「イジメられて、自殺しちゃった人がいるんだって。その人のことを考えてたら、なんだか胸がぎゅーってなったの」

 パグの視線を感じる。
 わたしは、顔を上げることができない。

 わたしが考えたって、その人のためになにができるわけでもない。
 ありがた迷惑って、こういうことを言うのかな。

「ヒカリは、そいつのことを思っててくれよな」

 ぽつりとパグが言った。
 わたしは思わず顔を上げる。

「イジメられてたってんなら、まわりにたよれるやつが、いなかったのかもしれない。今さらなんて思うなよ? そいつは獏になってるかもしれないんだ」

 わたしは、はっとした。
 そうだ、パグは寿命まで生きられなかった人は獏になると言っていた。
 もしかしたら、その人はパグの知り合いかもしれないんだ。

「いつか、届くかもしれない。ヒカリだけは思うのをやめないでくれ。それがきっと、誰かの力になる」

 届くのかな。
 力になるかはわからない。
 だけど、あなたがいなくなって、悲しいと思ったことは、事実だから。
 伝わってほしいから。

「さぁ、お出ましだ」

 パグは足を止めた。
 さっきの影が目の前にいた。

「ヒカリが思ってくれたから、あとは簡単だぞ」

 パグは手を離して駆け出した。
 そして、剣を振りかぶる。

 影は、おとなしく切られてしまった。

 パグの手のひらに、小さな緑の輪っかが乗った。

「なんじゃこりゃ」

「たぶん、イルミライトだと思う」

 肝試し、暗闇で薄く光る緑のイルミライトは、まるで蛍のようだった。

 パグは一口でイルミライトを食べてしまう。
 何度か噛んで、飲み込んだ。

「ラムネみたいな味がする」

「たぶん、今日が夏祭りだったからだ」

 わたしはふふっと笑った。
 肝試しのあとにアカネちゃんと飲んだラムネは、甘くてしゅわしゅわしてて、おいしかった。

「楽しかったか?」

「うん! いつかパグとも行けたらいいな」

 その言葉にパグは小さく笑って、なにも言わずにわたしの頭をなでただけだった。



   ☆☆☆



 夏休みの間に育てていた朝顔が、きれいに咲いた。
 朝顔は昼になったら花が閉じちゃうから、わたしはそれを押し花にした。

 その日はよく晴れていて、藤代公園の林の中も少しは明るい。
 散歩している人も何人かいるから、わたしは安心した。

 池は静かだった。
 少し風が吹いていて、水面を小さく揺らしている。

 あのとき見たものは、見まちがいだったんだろうか。

 わたしがかばんから袋を取り出した。
 中に入っているのは、朝顔の押し花だ。
 わたしは、それを池に浮かべた。

 届いてくれたらいい。

 わたしは目を閉じてそう願うと、元来た道を戻っていった。