わたしは『それ』の前に立って、ごくりとつばを飲み込んだ。
 ひたいには、少し汗をかいている。

 目の前にいるのは悪夢だ。
 この正体を確かめようと、わたしは気合を入れて眠りについた。
 きのうと変わらず、悪夢はペラペラと一反木綿のような形をしている。

 とりあえず、捕まえてみよう。
 わたしは、たっと駆け出した。
 悪夢のしっぽみたいなところを掴もうとしたけれど、ひらりとかわされてしまった。

「わっ、わっわっ……!」

 転ぶ!

 そう思ってぎゅっと目をつぶったけれど、いつまで経っても衝撃はこなかった。

 そっと目を開けると――。

「おまえががんばるのは結構だけど、そしたら俺の出番がないじゃないか」

「パグ!」

 パグがわたしのからだを支えていた。
 わたしを抱えて、立たせてくれる。

「大丈夫か?」

「うん、ありがとう……」

 また助けられてしまった……。
 守ってくれるって言われたけど、今日はがんばるつもりだったから、拍子抜けしてしまう。

 パグは悪夢に向き直った。

「あいつの正体がわかったのか?」

 わたしの方を向かずに、パグはたずねる。
 悪夢はひらひらと宙をさまよっていた。

「うん。アカネちゃんに算数を教えてて気づいたの。わたしね、まとめテストのことが気になってたみたいなの。アカネちゃんに勉強教えてって言われて、悪い点数取らせちゃダメだなって無意識に考えてたみたい。だからあれは、テストの悪夢なんだ」

 あれは一反木綿じゃなくて、テスト用紙だ。
 ぺらぺらしてて似てるから、気づかなかった。

 パグがちらりとわたしの方を見た。
 その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。

「よくやった。あとはまかせておけ」

 そう言ってパグは足を踏み出す。

 パグはかるく踏みこんで、悪夢の前まで行った。
 ぶんっと剣を振るけど、悪夢はそれをかるがるとかわしてしまう。

 それでもパグにあせったようすはない。
 よけられることは予測していたようで、冷静に剣を構えなおすと、ぐっと踏み込んだ。

 パグが高く飛び上がる。

 さすがに、ふい打ちだったらしい。
 悪夢は逃げることもできず、真っ二つになってしまった。

 剣をしまったパグの手のひらに、小さくなったテスト用紙が落ちてきた。
 わたしはパグに近づく。

 パグはテスト用紙をぱくりと口に放りこんだ。
 しばらくもぐもぐ噛んで、それからごくりと飲み込む。

「……おいしい?」

 何度見ても、不思議なかんじだ。
 ノートもシャトルも、テスト用紙だってわたしの世界では食べ物じゃない。

 だけどパグはそれをおいしそうに食べるんだ。
 パグは、指をなめると、こっちを向いた。

「あぁ、うまいぞ。食べてみるか?」


 わたしは横に首を振った。

「冗談だよ。獏以外が悪夢を食べても、まずいだけだからな」

「そうなの?」

「あぁ、俺たちは死んだ人間だ。生きてる人間とは味覚が違うのさ」

 その言葉にわたしはひやっとした。
 死んでる人間……?
 じゃあパグは……。

 パグはようやくいま自分の言った言葉に気づいたらしい。
 はっとした顔になった。

「パグ……それって……」

「あー……」

 パグは困った表情をした。

 わたしがじっと見つめていると、観念したかのように、口を開いた。

「夢食いってのは、寿命まで生きられなかった人間がやる仕事なんだよ。事故、自殺、いろいろあるけど、じーさんばーさんになるまで生きられなかった人間な。夢ってのは生きてる人間にしか見られない。だから獏は夢がうまく感じるのかもな」

 わたしはなにも言うことができなかった。
 夢がおいしいとか、おいしくないとかの話じゃない。

「パグは……自殺、したの……?」

 その言葉がぐるぐると頭の中を回っていた。
 思いもしなかった事実に、なんだかくらくらしてきた。

 そのとき、ぽすっと頭になにかが触れた。
 見上げると、それはパグの手だった。
 優しくほほえみながら、わたしの頭を撫でてくる。

「覚えてないんだ。気がついたらこの世界にいた。もしかしたら事故だったかもしれないんだよ。……だから、そんな顔すんな」

 そう言われてはじめて、わたしは泣きそうになってたことに気がついた。
 目が潤んでしまっていて、パグが優しく撫でてくるからますます涙が出てきてしまう。

「泣くな泣くな。ほら、テストがんばんなきゃいけないんだろ?」

 わたしはごしごしとまぶたをこする。
 そして、しっかりとうなずいた。

「いい結果だったら、言いにくるから」

 がんばらなきゃ。
 パグが悪夢を食べてくれたんだから。

 わたしがそう言うと、パグは嬉しそうに笑った。



   ☆☆☆



 明日から夏休み。
 まとめテストが返ってきた教室は、これから始まる夏休みにそわそわしていた。

「ヒーカリちゃん!」

 帰る準備をしていたわたしのところに、アカネちゃんが近寄ってきた。

「アカネちゃん。どうしたの?」

「えへへー。見て見てー」

 そう言ってアカネちゃんは何枚かプリントを差し出してくる。
 丸やバツがついたそのプリントは――。

「これ、まとめテスト?」

「そう! ヒカリちゃんのおかげで百点取れたんだよ! 本当にありがとね、ヒカリちゃん!」

 アカネちゃんは満面の笑みで言ってくる。

「ううん、アカネちゃんががんばったんだよ」

「ヒカリちゃんがいなきゃ、ここまでいい点数は取れなかったよー」

 アカネちゃんもいい点数を取れてよかった。
 これで、パグにいい報告ができる。

 わたしは窓の外を見上げた。

 そこには、どこまでも突き抜ける青空が広がっていた。