池は、藤代公園の池そのままだった。
 風がないから、水面は静かだ。

「さーて、そのヤローはどこにいるのかなー?」

「いつもは私が来たときにはもういるんだけど……」

 あたりを見渡してみたけれど、それらしい人影は見えない。
 わたしたちが来たから、隠れちゃったのかな?

「俺、ちょっと近くを見てきてみるわ。ヒカリとアカネちゃんをよろしくな、班長」

 そう言ってパグは林の中に入っていってしまう。

 風が吹いてきた。
 水面に波が浮かぶ。
 わたしは柵に寄りかかって、それを見ていた。

「ねねっ、ヒカリちゃんってもしかして、あの人が好きなの!?」

 アカネちゃんが隣に並んだかと思うと、そんなことを聞いてきた。

「え!?」

「だぁってー、私が撫でられてたときヒカリちゃん、すっごい顔してたよ?」

 わたしが、パグを好き?
 それは『アカネちゃんを好き』とは別の意味でってことだよね?

 そっ、そうなの!?
 わたし、パグのこと好きだったの!?

 アカネちゃんはにこにこ笑顔を浮かべている。
 冗談を言っているわけではなさそうだ。

 わたし、自分で自分の気持ちに気づいてなかったんだなぁ……。

「もしそうなら、ちょーっと困るなぁ」

 そう言ったのは、アカネちゃんとは反対側に立っていた班長さんだった。

「どう困るって言うのよー?」

 アカネちゃんがぷうっとほっぺたをふくらませて、身を乗り出して班長さんの顔をのぞきこんだ。

「獏は夢の中の存在だからね。好きな人は、現実の世界で見つけなきゃダメだよ」

 そういえばそうだ。
 夢の中で毎日のように会っていたから忘れてたけど、パグはもう死んじゃってるんだ。

 気づいたのと同時に失恋だなんて……。

「でもパグは……」

 班長さんがなにか言いかけたときだった。
 強い風が吹いた。
 わたしは思わず目をつぶる。
 ざぁっと波が揺れる音がした。

「あの人!」

 アカネちゃんの声に目を開けると、池の反対側に男の人が立っていた。
 そこは柵の内側で、男の人の足もとには今にも波が打ち寄せようとしていた。

「ここにいて」

 班長さんはそう言うと、柵に足をかける。
 そして、いきおいよく踏み込んだ。

「え!?」

 わたしとアカネちゃんの驚く声が重なった。
 柵から跳んだ班長さんは、池を飛び越えて向こう岸に着地していた。
 すごいジャンプ力!

「ヒカリちゃん! 行こう!」

 わたしたちは向こう側へ走り出した。



「離せ! 俺はつぐなわなきゃいけないんだ!」

 向こう岸に辿り着いたとき、班長さんに後ろから羽交い絞めにされていた男の人はそうわめいていた。

「とりあえず落ちついてー? 話聞かせてよ」

 班長さんがのんびりと言う。

「あれ……? ヒロキさん?」

 そんな声を上げたのは、アカネちゃんだ。

「アカネちゃん、知り合いなの?」

「うん。ほら、後藤くんのお兄さん」

 後藤くん?
 同じクラスの?
 そういえば目もとが似てるかもしれない。
 アカネちゃんは、わたしの耳もとに口をよせてきた。

「そしてわたしの好きな人」

「あ! そっか!」

 ささやかれた言葉に、わたしは大声を上げてしまった。
 それに気づいて、班長さんとお兄さんが振り返る。

「あれ? アカネちゃん?」

 口を開いたのはお兄さんだ。

「こんにちはヒロキさん! 夢の中とはいえ、会えるなんてラッキー!」

 でもどうしてアカネちゃんの悪夢にお兄さんが出てきたんだろう?
 『つぐなわなきゃいけない』ってどういうこと?

「それで、ヒロキくんはどうして池に飛び込もうとしてたの?」

 それを聞いたのは班長さんだった。
 お兄さんは、苦い顔をして黙ってしまった。
 あたりが静まり返る。
 風が小さく吹いていた。

「俺、友達をこの池に落としてしまったんだ……」

 お兄さんの口からこぼれたのは、そんな衝撃の言葉だった。

「わざとじゃなかったんだ! あいつは足を滑らせて、池に落ちてしまった……。場所が悪かったんだ。ちょうど転んだ場所に岩があって、あいつは頭をぶつけてしまった……。それから、あいつはまだ目覚めない……」

 そう言ってお兄さんは、うつむいてしまう。
 ここからじゃよく見えないけど、きっと後悔してる顔をしてるんだろう。
 お兄さんの言葉には、その気持ちがにじんでいた。

「なるほど。ヒロキくんの悪夢がアカネちゃんに絡んで、悪夢に取り憑かれやすいヒカリちゃんの影響でアカネちゃんが悪夢を見るようになっちゃったんだな」

 班長さんがぽつりと言った。

 えっ、つまりアカネちゃんが悪夢を見るようになっちゃったのは、わたしのせいってこと!?
 そんなぁ!!

 不安そうな表情のわたしに気づいたのか、班長さんがわたしを見てにっと笑った。

「大丈夫。こんなときのために、僕らがいるんだから」

 そっか……。
 班長さんたちは、悪夢を食べてくれるんだ。

「ヒロキくんは高校生か。本当なら僕らの担当じゃないけど、これはアカネちゃんの夢だからまぁいっか。ヒロキくん、君はそのことを後悔してるんだね?」

 お兄さんが顔を上げた。
 班長さんの目を見て、しっかりとうなずく。

「なら大丈夫だ。心の底から謝って、そしたらきっと相手にも気持ちは伝わるから」

「でも……。もし許してくれなかったら……?」

「それはそのとき考えよ! 不安になったら、いつでも僕らが聞いてあげるから」

 その言葉に、お兄さんは深くうなずいた。
 お兄さんが光に包まれていく。

 その光はやがて手のひらサイズの石になった。
 ためらいなく、班長さんはそれを口にする。

「お、おいしいの? それ……」

 わたしがたずれると、班長さんは意味深な笑みを浮かべた。

「ほろ苦い、大人の味だよ」

 そのとき、背後でかさりと音がした。
 振り返ると、そこにいたのはパグだった。

「パグー、遅いよ? 全部終わっちゃったよ?」

 班長さんが軽口を投げるけど、パグの表情は固まってしまっていた。

「パグ?」

 様子のおかしいパグに、わたしは近寄った。

「パグ、どうしたの?」

 たずねるけれど、パグの視線はわたしを見ていない。
 わたしを通り越して、班長さんを見ていた。

「ヒロキ……。どうして……」

 パグは今来たよね?
 どうして、お兄さんの名前を知ってるの?

 そう聞こうとしたら、パグはがくんと倒れてしまった。

「パグ!? ねぇパグ!! しっかりして!!」

 あわてて支えたようとしたけれど、支えきれずに一緒に倒れこんでしまった。

 パグは気を失ってしまっていた。