ノルツの傍を離れ浴室に駆け込んだリナローズは扉を背にずるずると崩れ落ちる。
 それを見た侍女は旅の疲れで倒れたのかと慌てて抱き起そうとしたが、主人の顔は湯あたりでもしたように赤い。発熱だろうかと心配が深まったところで震える唇から紡ぎ出されたのはなんとも平和なものである。

「わたくしの旦那様、かっこ良すぎ……」

 お屋敷は今日も平和だなと侍女は思った。

 だがこの平和な屋敷も激しい混乱に揺れたことがある。新たな領主が王子殿下であると聞かされた時だ。
 たちまち屋敷は不安に包まれた。直接的な言葉はなかったが、それが追放であることを誰もが感じ取っていたからだ。よほど無能なのか、あるいは傲慢なのか。様々な憶測が飛び交い、今のうちに辞める方が賢明だとまで囁かれていた。

 そんな時、単身屋敷を訪れたのはリナローズだった。

 こちらの不安を察し、辛抱強く話を聞いてくれたのだ。侯爵令嬢でありながら働く者に気を配り、同じ目線で寄り添ってくれる。とても貴族の令嬢とは思えなかったが、そのどれもが夫となるノルツを想っての行動らしい。

「ここはノルツ様にとって心休まる場所であってほしいのです」

 何故そうも頑張るのかと聞けば、リナローズは嬉しそうにそう答えた。ひたむきな想いに心を動かされたからこそ、屋敷の人間はみなノルツを歓迎すると決めたのだ。

 そんな頼もしさ溢れる女主人が少女のように頬を染めている。主人と仕える者でありながら、今では友人のような距離にある侍女は微笑ましいものに触れた気持ちだった。

「さあ、旦那様様がお待ちですよ」

 侍女は確信した。この地と屋敷が安泰である事を。二人の子どもに会える日が近いことを。