「こんなところで、どうしたの」


 大好きなひとの声が、低く響いた。
 わたしは飛びあがるほど驚いて振り返った。

 月刊小説誌の校了明け。
 徹夜の出張校正を終えて印刷所を出てきたら、玄関に彼が立っていたのだ。


「え……!? 神崎先生、なんでここに?」


 背の高い三十歳前後のその男は、無精髭を撫でながらニヤリと笑った。


「俺は取材。他社だけど、今度印刷工場を舞台にしようと思ってさ」


 神崎守さんは、わたしが編集者になって、初めて担当した推理小説家だ。
 新人編集者の慣れない仕事にも文句を言わず、逆に励ましてくれる心の広い作家さん。

 最初は、緻密なトリックを操る彼のミステリが好きなだけだったのに、何度か一緒に仕事をするうちに、人柄まで好きになっていた。
 だって、もの柔らかで気さくだし、何より声がいい。


「君は校了? もう終わったの?」

「はい! ちょっと遅れた原稿があって、張りついてたらこんな時間に。あ、やだ。わたし、顔ボロボロですよね。あんまり見ないでください!」


 うう、朝日がまぶしい。

 化粧のはがれたみっともない素顔を見られたくなくて、わたしは持っていた校正刷りの紙で顔を隠した。


「お疲れ様。俺みたいな面倒な作家がほかにもいるの?」

「いえっ、わたしのスケジューリングがうまく行かなかっただけなんです。それに、神崎先生はちゃんと締切守ってくださるし。全然面倒なんかじゃ」

「ふーん?」


 いつも穏やかな彼の笑顔が、なぜか一瞬、意地悪く見えた。
 目の錯覚かな?


「俺も今度、原稿遅らせてみようかなあ。そうしたら、君が徹夜で張りついてくれるんだよね?」

「……はい?」


 神崎さんは、あんぐりと口を開けたわたしをおかしそうに見て、少しふざけた口調で言った。


「嘘だよ。そんなこと、しない」

「……ですよね、はは」

「うん。でも、ちょっと妬けるのは事実かな」

「妬ける……?」


 校正刷りの陰からそうっとのぞくと、思いがけない真剣な瞳が、わたしをまっすぐに見つめていた。

 落ち着いた大人の微笑みでもなく、からかうような調子でもない、まるで知らない男の人みたいな顔。


「……校了明けの編集者の心情について、取材させてくれないかな? うちで美味い珈琲、入れてあげるよ」


 神崎さんが、ふと照れたように頬をかいた。
 わたしは男くさい無精髭から、目が離せなかった。


 ――違う。誤解しちゃだめ。


 神崎さんは、取材したいだけ。
 作品にリアリティーを持たせることに貪欲なだけなんだ。
 そして、わたしは、校了明けの眠気を醒ましてくれるだろう珈琲の魅力に抗えないだけ。


 いろんな言い訳が頭を巡るけれど、答えはイエスしか思い浮かばなかった。