白峰月 序十五日


ビリー。

夏季休暇が始まりました。

帰ろうと思えば帰れるけど、休暇だからといって特別とは思えません。
その気になればいつだろうと一緒です。

だから今年はこちらでゆっくり過ごします。

帰った途端にこき使われるのはごめんですから。




「……マリオン」
「カイル。どうしたんですか、こんな所まで来るなんて」

むっとした表情でマリオンの側まで歩み寄ると、手にしていた水差しを取り上げて横の台に置いた。

「なかなか来ないから迎えに来た」
「はい? 来ない?」
「……もう昼だぞ」
「あらら、そうでしたか?」
「…………暑いな」

カイルがむっとした顔でいるのは怒っているからではなく、この温室の暑さにだった。
硝子張りの温室の、上部にある通気口は開いているが、内部の温度と湿度はかなり高い。

それでも壁の役目を果たしている背の高い草葉のおかげで、夏の直射日光はずいぶんと和らげられている。

身体中から汗が吹き出す感覚に、眉間に縦にしわが入った。
濃い緑の中、真っ黒なローブ姿のマリオンに、カイルは季節を見失いそうになる。

「こんな中でローブ……倒れたいのか」
「着てないと倒れちゃいますよ」

汗がひとつもない涼しい顔で、マリオンはけろりと答えた。


カイルも休暇を学院で過ごすと決めていた。
遠方は遠方だが、そんなことよりも実家に戻って姉や兄に揶揄われたり、まだ小さな妹にまとわりつかれるのを避けたいのだと聞いた。

なのでこの期間を、カイルは稽古をしたり稽古をしたり稽古をしたりして過ごしていた。それぞれがやるべきことをしているが、昼時になるとこうしてマリオンを昼食に誘う。


リックとリディアとは夜会のすぐ後で別れた。
リックの実家に引き摺られるようにして行ったリディアは悲壮な顔をしていた。
リックがマリオンを誘ったのは、リディアの心情を慮ってのことだったらしい。
楽しくなさそうなのは容易に察せたので、改めて今度は丁重にお断りしておいた。



食堂は閑散としているが、学院に残っている生徒はいる。

ほとんど同じような理由で休暇を学院で過ごす生徒、事情があって帰る時機を見計らっている人も中にはある。


昼食の後、カイルはマリオンを術師科の棟まで送っていく。

首元にはいく筋も汗の通り道ができていた。

マリオンは空中に小さく円を描いて、その後カイルの肩をとんと軽く叩いた。

冷たい風に服が内側から膨らんで汗を消し、からりと軽くなった服は少し冷んやりと気持ちが良い。

「……ローブがこうなっているのか?」
「そうですよ、夏は涼しく、冬はあったかです」

だから一年中同じような服で済むのだとマリオンは笑った。
そう言われてみてカイルは、術師科の誰もがローブの中味は季節を無視したような格好だったのを思い出す。

「術師科が夏は厚着で冬が薄着な訳だな」
「みなさん独自で大なり小なり似たようなことはされてますねぇ」
「……羨ましいな」

騎士科は夏も冬も堪えるのみ。
それを静かに我慢してこそ、という態度が好まれもするが、正直にキツいものはキツい。

「ちゃんと術式を描ければ、このくらい、カイルの魔力量なら軽く維持できますよ?」
「本当か?」
「ええ、たぶん他に回せる程度には余力も残ります」

魔力量の多い騎士は、治癒系の術を覚える。
自分や仲間を生かす為に使われることが多い。
中には自分の強化に回す者もいる。

「俺にその術を教えてくれ」
「はい、構いませんよ」

余力が残ると聞いてしまえば、馬鹿正直に我慢するのみでなくてもいい。

「今からでもいいか?」
「大丈夫です」

縋るような顔をしているカイルに、マリオンは遠慮なく笑い声を上げながら頷いた。


術師科棟にやたらと他科の生徒を入れるのは憚られるので、マリオンはカイルを伴って建物の影と木陰が混じる場所に移動した。

外の空気を吸ったり、ぼんやりできる場所によく使われるそこには、元からあるのか誰かがわざわざ持ってきたのか、腰を掛けるのに丁度いい、四角く切り出された石がいくつも並んでいる。
つるつるに磨かれているから、誰かが何かしらの目的をもって置いたようにも見える。

マリオンはカイルを座らせると、ひとつを間に挟んで横向きに座った。
間にある石を卓替わりにするのだと、すぐに察してカイルも座る向きを変える。

軽く手を振って紙を呼び出すと、それを石の卓に広げる。
マリオンはもう一度手を振ってペンを持つ。

「術式の基礎は覚えてますか?」
「うん……多分」
「式は起こしたい事象をはっきり定義しないと、無駄に魔力を消耗して、しかも思った程の結果は得られません」
「……ああ」
「何をどの程度したいか、どれだけ維持したいか、はっきり示す為にあるのが術式です」
「そ……んな簡単な話だったか?」

自分が聞いた講義は長く、理解する前にどんどん話が進んでいたので、最終的には言われた通りに言われたことを、出来るようになるまでとりあえずやる。という感じだった。

「簡単に言ってるだけですよ。そこにいくまでの細かい理論はぶっ飛ばしてるだけです」
「……なるほど」
「何もないところから術式を組むのは、そういうのが得意な術者に任せておけばいいんです。今は普通に使ってる照明だって何だって、魔術で動くものはみんなそうです」
「……そこは聞いた覚えがある」
「ふふ……素直で大変結構です」

マリオンは紙の上に美しい形の円を描いた。
始めと終わりが繋がっていないので、完璧な円とはいえないが。

「私が作った術式をカイルに差し上げますよ」
「……良いのか?」
「言ったでしょう、使えるものは使えば良いんです」

内側にもうひとつ円を書いて、外と内の円の間に文字を書き込んでいく。

「この辺りに定義する事象、こっちが強さと維持の期間、で消費される魔力量、履行するカイルの署名……発動するといけないので、円は閉じてないですよ。カイルも練習の間は閉じないようにして下さいね」
「分かった」

円の中に書き込まれていく、流れるような美しい線に、ただただ見惚れる。
その昔大系を作り上げた大魔女様のいた時代の文字だ。
カイルには殆どが読めはしない。
自分の名の部分だけが辛うじて分かる。

「きれいだな」
「術式はきれいに書けてなんぼですよ」
「そうなのか?」
「円なんて特にそうです」
「…………そうか……」
「騎士科のみなさんが適当なのは、術師科では笑い種ですよ」
「稚拙なのは自覚してるぞ」
「円の形が一番力が澱みなく廻ります。より真円に近い方が無駄なく力が還るんだと、意識するだけでかなり違いますよ?」
「なるほど……分かった」

インクが乾いたのを確認して、マリオンは紙をくるくると巻くと、カイルに手渡した。

「カイルには差し上げますけど、他の人にどうぞ使ってとはなりませんからね」
「分かっている、誰にも教える気はない」
「たくさん練習して下さい」
「ありがとうマリオン」
「どういたしまして」

何度も紙に書いて練習して、それが空中で思いのままに描けるようになるまで、慣れていない者にとっては、やるしかない、それのみだ。

さっと手を振るだけ、ぽんと叩くだけ、こともな気にやっているマリオンの凄さに、改めて感心する。

「大したものだな」
「何ですか、今さらですか」
「…………マリオンが凄すぎて感覚がおかしくなってるんだ」
「私のせいですか」
「……練習の成果を見てくれるか?」
「もちろんですよ」
「無駄なく力を還す……か……ん? 待てよ、今使ってる騎士科の術もそういうことか?」
「それも笑い種のひとつです」
「教えてくれ」
「それはご自分で勉強して下さい」
「…………くそ」

この小さくて薄っぺらい手がやってのける事柄を知っている限り思い返してみて、カイルはもう一度小さくくそと溢した。

「握ったら潰れそうなのにな」

マリオンの手を下から掬うように握って、柔らかく力をこめる。

「そりゃカイルに握られたら潰れますよ!」
「魔獣を千切るんだよなぁ……」
「カイルだって両断してたじゃないですか」
「俺はその為に力を付けたからな」
「私だってそうですよ」
「涼しい顔で辺り一帯炎で焼き払ったり」
「私を危険人物みたいに言わないでください。カイルだって変わらないですからね」
「恐い恐い」

反対の手でマリオンの頬を摘むと、ぐいぐいと横に引っ張った。

癇癪を起こした子どものように怒って、手を払い、立ち上がって歩きだしたマリオンを追って、もう一度カイルはその手を取った。

そのまま手を引いて倒れかかってくるマリオンの小さな身体を、カイルは両腕の中に受け止めた。
力を込めて一度ぎゅうと抱きしめる。

ありがとうと言うとマリオンは怒りを収めてため息をひとつ吐き出した。

摘んだ頬をぐりぐりと撫でて悪かったと謝る。

撫でられる猫のように目を細めて、その後マリオンは笑顔に変わった。




この後カイルはそれなりに練習を重ね苦労しながらも習得するが、納得がいく結果が得られるようになるにはまだまだ道のりが長そうだった。

無駄に力を消費しつつも、どうにか術を展開できたのは、もう風が秋のそれに変わる頃だった。