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夜空に照らされるは、花谷通り───
このあたりでは親しみのあるフレーズを心の内で唱えながら、夏杏耶はメモを見返した。
「ほんとに合ってるのかな……」
『CLOSED』または『準備中』と掲げられた看板前に、カラスのくちばしが心置きなく這っている。
おかしな形容をするな、と思っていたけれど、〝夜空に照らされる〟というのはあながち間違いではないらしい。
真昼間の花谷通りは、休日だというのに人気がまるでなかった。
「あ、ここだ」
カラカラカラッ。後ろで荷を引きながら、とある木造2階建ての前で立ち止まる。
1階にはまだ灯らない提灯がぶらさがっていて、その横には2階へと続く階段が折り目なく伸びていた。
なるほど……聞いてた通り、大家さんは1階の居酒屋の店主なのね。
うんうん。それで、上を貸してもらってるわけか。まあ……少し急な階段だけど。
「……よしっ」
どんなに重くても、障害があろうと、彼との〝暮らし〟が待っていると思えば、お茶の子さいさいだ。
キュッと口を結び直し、夏杏耶はキャリーケースを持ち上げた。



