それから、しばらくは叶実先輩に会う事はなかった。
大学内でも会わなかったし、連絡が来る事もなかった。
『こちらから連絡してみようか..』
何回か電話したが繋がらない。
叶実先輩は自由奔放な人だ。
そこが魅力の一つでもある。
俺は完全に彼女に振り回されていた。
今までにない扱いにどこか自分に酔っていたのかもしれない。
『今夜、ウチくる?』
やっと返信が来た。
もう何週間経ったのだろう?
その日は1日中、今夜の事を考えて舞い上がっていた。
やっと会える。
いつもより入念に体を洗い、最近購入した1番のお気に入りシャツを着る。
約束の時間が待ち遠しい。
何回か通った叶実先輩のアパートに時間通りに到着した。
ドアが開いた瞬間に彼女を抱きしめる。
『ああ、俺ホントにこの人に溺れているんだな』
会えなかった時間が俺を興奮させていた。
ほとんど会話もないままベッドに流れ込む。
俺は本能のままに彼女を貪った。
甘く刹那な空気が部屋中に充満する。
彼女は俺に初めての感情を教えてくれた。
言葉では表現する事が困難な複雑な気持ちは、いつも行き場を失っていた。
今はただ、目の前にいる叶実先輩に埋もれていたかった。
何時間そうしていたのだろう?
何も食べていなかった。
空腹さえも忘れるほどに夢中になっていたのだ。
「下のコンビニで何か食べ物買ってくる」
そう言って叶実先輩は部屋を出て行った。
俺は夢の中にでもいるような、どこか現実離れした空間でまどろんでいた。
彼女のいなくなった部屋を見回した。
主をなくした空間は、俺を寂しくさせる。
『このままで俺は大丈夫なんだろうか?』
ある種の中毒と言っても過言ではない。
欲しいだけ手に入るのならば満足できるのだろうか?
その時だった。
部屋の片隅に、彼女には似合わない見覚えのある物体を見つけた。
それを凝視したまま動けない。
思考が花火のように散らばる。
『確かめろ』
頭の中で誰かが言った。
『何を?』
恐怖が一気に体を襲う。
逃げ出したい。
俺は、『ソレ』に近づいた。
すぐに、いや。最初から分かっていた。
それは、2年前の達也の誕生日に俺があげたキャップだ。
珍しい物ではないが、見覚えのある傷が同じ場所についている。
アイツはこれをとても気に入ってよく被っていた。
『なんでコレがここにあるんだ?』
答えはわかっていた。
ただ、心が追いついていない。
現実から必死に目を逸そうとしている自分がいる。
こういうのを『絶望』っていうのか...
どこか他人事の様にそう思った。
もう少しで叶実先輩は戻ってくるだろう。
どんな顔をすればいいんだ?
此の期に及んで、どうしたいのかがわからなかった。
『このままなかった事にしようか』
一瞬思って、そんな事ができない事を悟る。
ドアが開く音がする。
彼女が帰ってきた。
立ち尽くしている俺に叶実先輩が気づいた。
俺は顔だけ彼女の方に向けた。
「ここに達也が来たんですか?」
疑問形だが、それが質問ではない事はお互いに分かっていた。
彼女の表情は冷たかった。
俺の心が一気に凍てつく。
「関係ないよね。私たち別に付き合ってるわけじゃないし」
『そうだよね...』
わかっていた。
叶実先輩は初めから俺とどこかに進むつもりはなかったんだ。
俺は、たまたま目に止まったオモチャだった。
そして、達也もその一つなのだろう。
『これじゃ、現実逃避できないじゃんか』
俺は、ただ頷く事しかできなかった。
彼女の横を通りドアの外に出た。
足が一歩も踏み出せない。
このドアを隔てた向こうには、あの甘美な空間がある。
そして今、俺は寒気に身震いをして動けないでいるのだ。
情けないな。
涙が顔を伝った。
初めてのちゃんとした失恋だった。
『こんなに辛いんだな』
心の中でつぶやいた。
