俺は学生時代、モテる方だったと自負している。
でもそんな事より走る事に夢中だった。誰よりも速く走りたかった。
小学の頃から陸上クラブに所属し、中学、高校と陸上部で汗を流した。
部長まで務めあげた。
告白されて、その時の流れや周りとの兼ね合いなんかで付き合ったりも何回かしたが毎回結局、相手に興味がなかったので、向こうから嫌になって別れるという流れになっていた。
そんな時は、ホッとする自分がいる。
面倒な事から解放されたような気持ちだったのだろう。
大学に進学しても俺は走っていた。
そこそこの成績を残せるぐらいだったが、この道だけで生きて行ける程速く走れない事は自分でもわかってきていた。
そんな時、俺は叶実先輩と出会った。
叶実先輩は今まで出会ったどんな女の子よりも輝いて見えた。
彼女が走ると彼女の周りがスローモーションにでもなったのではないかと錯覚した。
本当に走るフォームが綺麗だったんだ。
2つしか年上ではなかったのに、この時は自分なんかよりもずっと大人に思えた。
現に叶実先輩からいろんな事を学んだ。
学校では教えてくれないような事だ。
その光輝く存在の前に俺はオロオロとひるんでしまう。
もっと近づきたいという欲求だけが募り、自分の無力さにうんざりしていた。
叶実先輩にとって俺はいつも『後輩くん』の一人なのだ。
俺はいつからこんなに自信をなくしてしまったのだろう?
ある夜、大人数で居酒屋に行った。
そこに叶実先輩も来ると言うので参加する事にした。
少しだけ期待していたが、いつもたくさんの人に囲まれている彼女には近づくことはできなかった。
何時間か経った頃、何人かは帰っていき、何人かは酔い潰れたりで、人数が減っていた。
叶実先輩の方をみると、かなり酔っている様子だったが楽しそうに話していた。
しばらくしてまた見てみるとそこに叶実先輩の姿はなくなっていた。
帰ってしまったのかとがっかりし、自分も帰ろうと思いその前に手洗いに席を立った。
手洗いの近くまで行くと喧騒の中、叶実先輩の声が聞こえて、立ち止まった。
よく何を話しているのかわからなかったが誰か低い声も聞こえる。
喧嘩している様だ。
気まずくなって外に出ようと歩き出した所、叶実先輩が、小走りで自分を追い越していった。
彼女のシャンプーの匂いだけが残る。
一瞬、ぼおっとしてしまったが、追い越した時、確かに叶実先輩は泣いていた。
ハッとすると同時に俺は彼女を追いかけていた。
店を出ると彼女の後ろ姿が一瞬見えて、角を曲がって行った。
追いかけてどうする?
『でも、かなり酔っているようだったし』
自分への言い訳を考えながら走った。
遠くで彼女が走っているのが見える。
さすがに速い。
あまり人気のないアーケード街を彼女のヒールの音が響く。
彼女が着ている薄手で少し長めのコートがひらめいて、なんだかスーパーヒーロのマントのようだ。
アーケードの真ん中を遮る唯一の道路の信号が点滅している、彼女は赤に変わるギリギリで横断歩道を渡った。
俺は赤信号をその場で足踏みして待ちながら、遠ざかっていく彼女をもどかしげに見ていた。
信号が青に変わったのと同時に走りだす。
まだ、追いつける...
ここで、彼女に追いつければ、何かが変わる様な気さえした。
今まで学んできた全てを出して、走った。
彼女の後ろ姿がどんどん近づいてきた。
もう少しで彼女に手が届く...
この為に今まで走りこんできたのではないかと思う程、
全力で走った。
自分の右手をできるだけ前へと伸ばす。
そして彼女の手首を握った。
やっとつかまえた。
叶実先輩は急に掴まれた事に驚いた様子で一瞬だけこちらを見た。
そして、すぐに前を向くと俯いたまま
「どうして?」
と小さい声で言った。
さっき見た彼女の顔は間違いなく泣いていた。
なんて声をかけていいのかわからず、立ち尽くしていた。
「ほっとけなくて...」
やっと出た言葉だった。
俺がやっと言葉を絞り出したその瞬間、さっき嗅いだシャンプーの匂いが顔のすぐ下をかすめた。
彼女は俺の胸の中にいた。
あんなに遠かった存在だった叶実先輩がこんなに近くにいるなんて、夢でも見ているんじゃないかと思った。
泣きじゃくる彼女を泣き止むまで守るように抱きしめた。
彼女は泣き止むと何も言わずに俺の手をとって歩き出した。
「私のアパートここの近くだから」
ただそれだけ言うと、何も言わなかった。
おれの手を引っ張って先導する彼女の表情を見たいと思ったが、そんな勇気はでなかった...
そんな事をすれば全てが消えて無くなってしまうんじゃないかと思ったからだ。
どのぐらい歩いたのだろう?
近かったのか遠かったのかさえもわからない。
ある建物に躊躇もなく俺を引っ張って入った。
一瞬止まろうとしたが、彼女に引っ張られるままに進んだ。
こちらに顔を見せないまま、ある部屋の前に立つとガチャガチャと鍵を開け、扉を開けた瞬間にまた引っ張られた。
部屋の中は暗く空気は冷たい。
今まで誰もいなかった部屋の静寂を突き破ったようだった。
窓から入る、街灯の光で微かに彼女が見える。
でも、その表情はわからなかった。
戸惑っている俺に彼女は近づき、キスをしてきた。
彼女の頬が濡れているのがわかった。
やめた方がいい。頭の中でも何回も思っている。
彼女は誰かと喧嘩して店を飛び出した。
しかも酔っているに違いない。
自暴自棄になっている彼女を止めなければ。
頭の中とは裏腹に俺はもっと深く彼女にキスをした。
