ロ・メディ聖教会の、最深部の執務室で、シスは高く積み上げられた文献に目を通していた。

 今まで異世界から召喚された聖女は数人いる。
いずれも約500年ごとに大地から瘴気が噴き出す時期となっているのだが、文献が散見されていて、今いち実態がつかみにくいというのが、シスの正直な感想だった。

 特に直近の500年前から近年に至るまでは、聖女の記録はわずかで、魔女狩りと魔族との確執に内容が偏っていて、ほとんど参考にならない。

 それ以上古いものになると、ほとんど残されていなかったり、読み取るのも難しいありさまだ。

 口語伝承されていれば、語り部などから話を聞くこともできただろうが、それも全くない。

 まるで、意図的に聖女の痕跡を消されたような、何とも気持ちの悪い感覚だった。

 魔女や魔族もそうだが、マヤやレイラも、シスの知る女性とは感覚がかけ離れている。

 魔族と違い、異世界から来ているとはいえ同じ人間なのだと思っていたが、信仰心がなく頭がよくないと侮っていれば、時折、驚くほど現実的であったり、論理的な思考をする。

 これは、異なる文化圏で起こりうる感覚の違いに似ている。

 とはいえ、レイラとマヤは明らかにこの世界にはいないタイプの女性だった。

 それが原因かはわからないが、聖女の力を持ったレイラに対する魔王の執着は、話を聞く限り相当なものに思える。

 魔王が聖女を奪還に来る可能性は否定できない。

 シスは憂いを帯びた表情で、長い溜息をもらした。

「魔族が動き出す前に、儀式を始めなくては」

 これで、ようやく瘴気の穴を浄化するという儀式を再開できる。

 聖女の力が発現しなかったマヤはロ・メディ聖教会が認める聖女ということになっている。

 彼女には聖女として表に立ってもらい、影でレイラに浄化を行わせよう。

 多くの上位神官に参列してもらい、聖女の力を知らしめなければならない。

 招集をかける前に、レイラの力を確かめておく必要がある。

「レイラを聖堂へ連れてきてください。水鏡の杯の用意を」

 シスは立ち上がり、足早に聖堂へと向かった。

   *   *   *

 聖堂で水鏡の杯に満たされた清浄な水を確認していると、女官に連れられてレイラがやってきた。

「禊をしていたのでしたね。ご苦労様です」

 シスはなるべくやわらかい口調でレイラを労い、彼女の様子を見るために振り返った。

 そして、言葉を失った。

 彼女は教会で配布される、一般的な神官服を着ていた。

 大きなフードと体をすっぽり隠す衣は白く、フードと袖、そして裾に控えめな金で縁取りされたものだ。

 その質素な装いが、大人びた彼女の華やかな顔立ちを際立たせている。

 先ほどまで禊をしていたので髪は湿り、水が髪の先を伝って鎖骨にしずくを落として、艶と貞淑を混ぜたような何とも神秘的な雰囲気を醸し出していた。

 召喚の40歳ほどに年を取っていたときも、この辺りに見られない顔立ちだが、象牙色の肌と相まって美しい人だとは思っていたのだが。

 大人びていて思慮深くて、聖女にふさわしい清らかさを感じさせる雰囲気だった。

 そこまで考えて、シスはふと彼女にまつわる噂を思い出した。

 彼女が、魔王を篭絡していたというのは、本当だろうか?

 シスが聞いた数々の噂は、まるで彼女が淫魔さえもしのぐようなものばかりだった。

 本人は否定していたし、噂が誇張されていたとしても、今の彼女を見る限り、魔王が執着していたというのも、あながちウソではないのだろう。

「何か?」

 とても不機嫌そうなレイラをじっと見つめてしまっていたシスは、顔をわずかに赤くして首を振った。

 マヤや、他の女官たちはシスが見つめると顔を赤くするが、レイラは怪訝そうな顔をして正面から目を合わせて見返す。


 そんな堂々とした態度にも、シスはレイラが聖女としてふさわしいように思えた。

「あなたの、聖女としての力を確かめたいのです。この杯の水に法力を満たしてください」

「法力とか魔力とか、さっぱりわからないのだけど、要するに、癒しの力を使う感じでいいんだよね」

 レイラは手を水鏡の杯に近づけ、目を閉じる。

「この水に癒しの力が宿りますように」

 レイラが口にすると、彼女の手がかすかに光ったように見えた。

「終わり……ですか?」

「うん。これだけ」

 あっけらかんとレイラが言うので、かまえてレイラを見守っていたシスは、毒気が抜かれたように息を吐いた。

 近づいて水鏡の水に触れると、水の中に強い癒しの力が浸透しているのがわかった。

「……本物のようですね」

 信じられなかった。一瞬でこれほどの力を発揮できるなんて。

 一滴だけでも、病気や怪我に苦しむ人を癒すことができるだろう。

「本物じゃなかったらどうするの? また間違えだったって殺す?」

 レイラの口からとげとげしい言葉が飛び出す。

「それは……忘れてください」

「口調は丁寧でも、傲慢な言葉ってわかってる?」

 レイラは容赦のない言葉をシスに向ける。

 シスは頭をさげた。

 今ここで、彼女と言い争いたいわけではない。

「私の誤りを謝罪します。そして感謝を。この杯の水を人々に分け与えれば、多くの人が救われます」

 レイラは先ほどまでの剣呑な表情がウソのように、きょとんと驚いた顔をした。

「……やっぱり、あなた私の苦手なタイプだわ。ひどいことされても、謝られたら許すつもりはなくても、それ以上責められないもの」

 それから水鏡に目を向けて、ふわりと優しく心の底から嬉しそうに笑った。

「それに、腹黒いとは思うけど、人の気持ちを掌握するのも上手いよね。必要な人に分けるってのは、ちょっと見直しちゃったもの。私も誰かの役にたてるのは嬉しいから」

 その裏表のない嬉しそうな微笑みと、素直な物言いに、彼女の性格があらわれている。

 シスは知らずのうちにレイラの微笑みに見とれていた。

「あなたは……」

 そこへ、複数の神官たちが慌てた様子でやってくる。

 我に返ったシスは、いつもの厳しい顔をして彼らの前に立った。

「何を騒いでいる」

「シス様! 瘴気の穴が!」

 息も絶え絶えに、一人の神官が叫んだ。

「西の森に大量の瘴気の穴が発生しました!」

「すぐに向かいます」

「お急ぎください。このままでは近隣の村が呑みこまれます」

 シスの驚きから立ち直るよりも先に、レイラがシスの横に来てシスの袖をつかんだ。

「行こう!」

 レイラの力強い声に、シスはうなずいた。

「近隣住民の避難を! 私と聖女、護衛の武装神官たちは瘴気の穴へ向かいます」