暗がりの中、ラディスは目を開けたまま、ベッドに横たわっていた。

 レモンバーベナと言っただろうか、レモンに似たアロマの心地よい香りが、まだ濃厚に香っている。

 ラディスは隣に寝ているレイラの気配を探る。

 今日は疲れたのか、すぐに寝てしまったようで、規則正しい寝息が聞こえてくる。

 ラディスはなぜか、ほっとして息をはいた。

 レイラがラディスの体に触れた日は、調子がいい。

 普段なら睡眠をほとんど必要としないはずのラディスも、レイラがマッサージをしたときや、隣で眠るときは、すぐに寝入ってしまう。

 次の日は体がすっきりしていて気分がいいし、仕事もはかどる。
ところが今日は、妙に目がさえていた。

 先日、湯殿の湯を疲労回復、入るだけで肌艶がよくなり病気や怪我に効くという保養地のような効能を付与してしまったことから、聖女の力がレイラの願いを通じて発動していると考えていい。

 聖女と言えば、瘴気の穴を塞ぎ、浄化をするという以外にも様々な逸話が残っているが、レイラは癒しの力に特化したような力の発現をする。

 おそらく指先に癒しの力を宿して、ラディスの体に触れているのだろう。

 奇特な娘だと思う。

 最初は見ず知らずの魔族が、自分と一緒に光の矢で刺し貫かれた時だった。

 死んだ魔族は瘴気を浴びて狂暴化していたというのに、その死に顔を憐れんで無意識で浄化をしたのだ。

 彼女の口から魔女の話が出たことが過去の記憶を呼び起こしていた。

 この城に連れてこられた後も、混乱しながらも、ラディスの体調のことばかり考えて、口うるさくあれこれと世話をやいて……まるでラディスのよく知る……。

 人間は弱いくせに身勝手だと思っていたが、こういう一面もある生き物なのだろうか。

 暗がりの向こう、横で眠るレイラに手を伸ばせば届く距離。

 ラディスの指先がぴくりと動く。

 途中まで手を伸ばしかけて、あきらめた。

 彼女に触れることはできない。

 ラディスはレイラに聖女の力を貸せと言った。彼女は元の世界に戻る手段を調べる代わりに引き受けるといった。

 元の世界……。

 魔族が律儀に約束を守ると、本気で思っているのだろうか。

 お人好しすぎるレイラが心配になってくる。

 今まで誰かのことをここまで気にしたことがなかったので、具体的に何をしたらいのかも、何を言ったらいいのかもわからない。

 もちろんラディスは約束を守るつもりで文献を調べ、調査もさせている。

 いつまでも帰る手段など、見つからなければいいのに……。

 いや、いつまでも役目を終えなければ、帰ることもできないままだ。

 ラディスは、自分の考えにもやもやとしながら、目を閉じた。

 今の状況がレイラにとって危険なのもわかっている。

 リリンがレイラの命を狙ったのも、魔女が未だに大地に瘴気の穴をあけて回っているのも……。

 ラディスは、老婆になって死んだ魔女のことを今でも鮮明に覚えている。

 兄に追われ逃亡生活を送っていたラディスを、教会を追われ、隠れ住んでいた魔女の生き残りが助けてくれたのだ。

 彼女が瘴気に対応する術をラディスに教えたのに。

 それなのに、彼女が瘴気の穴をあけて回っているなんて……。

 レイラの出会った魔女がラディスのことを知っていたということは、本当にラディスの知る彼女なのだろう。

 一度会って確かめる必要がある。

 なんのために、ラディスに瘴気の穴の塞ぎ方を教え、何のために瘴気の穴をあけて回っているのか。

 そして、なぜレイラが聖女と気づいた上で、瘴気の穴をあけて回っているのか。

 彼女に会わなければ……。

「ううん……」

 そのとき、レイラが寝返りを打って、ラディスの伸ばそうとして途中であきらめた手の平にその手をのせた。

「…………」

 ラディスはほぼ反射的にレイラの小さな手をそっと握った。

 レイラは目覚めない。ラディスはレイラの反応を確かめてから、もう一度彼女の手をぎゅっと握りしめた。

 小さくやわらかな手。

 この手が触れるだけで、自分が癒されるのが不思議だった。

 ラディスの魔力を与えて眷属にしたとはいえ、元が人間の彼女はすぐに傷ついてしまう。

 ラディスは何度もレイラの手を握りながら、つぶやいた。

「まだ全部じゃないって何がだ?」

 体のまだマッサージされていない場所とは?

 というか、道具はいつ使ってくれるんだ?

 元々自分を律せるラディスがあったが、これ以上の快楽はさすがに危険かもしれない。

 レイラの手を握りながら、ラディスが悶々としているうちに、窓の外は明るくなっていった。

   *   *   *

 夜明け前、薄闇に包まれたレイラの部屋に侵入する人影があった。

 夜は本人が使わないので、鍵こそかかっているものの無人だった。

 金色の髪をした美しい少女、リリンだ。

 リリンは足音を立てずに部屋の中心に置かれた鳥かごへ近づいた。

「あの女……絶対に許さない」

 あの人間の女はラディスにリリンに命を狙われたと報告をしただろう。

 今までリリンがラディスに近づく女を殺しても、何のお咎めがなかった。

 これはラディスがどの女性に対しても関心を示さなかったからだ。

 誰が殺されようと些末な問題で、誰もラディスの心を動かすことはできなかった。

 けれども今回は違う。

 レイラを害したとわかれば、リリンは確実に殺される。

 運よく殺されなかったとしても、ただでは済まない。

 今まで何百年もラディスを見てきたリリンは、ラディスの変化に気づいていた。

 レイラに護衛をつけたり、防護の魔術を密かに施していたり、日に日にレイラへの執着が増している。

 それは、レイラが重要な役割を持っていることや、夜の伽が気に入っているというそういう男女の執着とは異なるものだ。

 忌々しいことに、レイラは毎晩、ラディスの寝室にいる。

 この鳥かごに近づけるのは今しかなかった。

 リリンは金色に輝く小さな小石を取り出すと、鳥かごの床に投げ入れた。

 金色の小さな文字が光る小石は、クッションの下まで転がっていく。

 レイラがクッションに近づいたとき、発動する手はずになっている。

 この石は、西の森でレイラが助けた人間から受け取ったものだ。

 調査隊によって森の外に出された後、偶然リリンと出会ったのだ。

 本来は西の森で、ロ・メディ聖教会が送り込んだ男がレイラに接触してこの石を使う予定だった。

 予定は狂ってしまったが、結果は同じだ。

 本当に、運がいい。

 リリンはその愛らしい顔を歪めるようにして笑った。

 レイラがいなくなれば、ラディスも目を覚ますだろう。

 リリンはしばらく身を隠すために、城を後にした。

   *   *   *

 夜が明け、レイラが朝食を終えてロビィと護衛に守られながら自室に戻ってくる。

「今日は予定がないから、部屋でゆっくり休んでってさ」

「そうね。ラディス忙しみたいだし、休ませてもらおうかな」

 レイラが鳥かごに足を踏み入れたときだった。

 金色の小石を中心とし、鳥かごの中に金色の魔法陣が発動する。

「え? なに……」

 レイラが驚いて足元を見る。

 慌てるロビィと護衛が手を伸ばす前に、レイラは忽然と鳥かごの中から姿を消した。

 後にはくすんだ灰色の 小石が残されただけだった。