「うわっ!!」

 とっさに運転席の後ろのパイプを掴んだ私はバスの急ブレーキに何とか耐えた。


 (バスがあらぬところで停まった)

 
 運転手さんのふうーというため息が聞こえた。

 前の扉をペタペタ叩く音がする。

 (なになに?遅刻しそうなのに)

 扉が開くとランドセルを背負った女の子が二人乗り込んで来た。

 小さい方の女の子が私にペコリとお辞儀した。

 「アタチ美都です」

 「ダメだよ。バスは停留所以外でお客さん乗せられないの」

 運転手が前を向いたまま注意した。

 背の高い方の女の子が乗客に向かって丁寧なお辞儀をした。

 「ごめんなさい」

 ミラー越しに後方確認した運転手さんと眼が合った。

 感情のない冷たい眼だった。

 バスは動き出した。

 ランドセルに名前がかかれていた。

 「ふうらいほたること言うの?」

 私は前方を凝視している大きい方の女の子に声をかけた。

 彼女はううんと首を三回振り、かぜきけいこですと小さな声で答えお辞儀した。

 「アタチ美都よ」

 小さい方の女の子もペコリとした。

 前方を凝視していたままの蛍子ちゃんが何かに気がついたように運転手さんの左手を引っ張った。

 「危ない!!運転中に」

 運転に集中していた運転手が慌てた。

 「君ね。危ないからさわらないで」
 
 「あっ!!そこそこ。そこを左に曲がって!!」

 蛍子ちゃんは今度は両手で運転手さんの左手を二回引っ張った。

 

 (えっ!!このバスは直進よ)

 美都ちゃんはニコニコしてペコリペコリと2回お辞儀をした。

 バスは赤信号で停車した。

 「ダメダメ。この先に停留所あるから、そこで降りて」

 風来蛍子ちゃんが膝を床につけて泣き出した。


 「お母さんが」

 蛍子ちゃんが運転手さんの左手をつかんだまま訴える。

 「お母さんが」

 美都ちゃんが繰り返す


 「お母さんが……お母さんが倒れて……そこの病院に」
  
 運転手さんは前を見たまま首を振る。

 ありがとーありがとーと作り笑みで美都ちゃんも訴える。

 「ダメ!!」冷たい眼のした運転手が毅然として言った。

 「お母さんがそこの病院に!!」

 信号が青になった。

 しばらくバスは動かなかった。

 運転手さんの背中が大きかった。

 カチカチと音がした。

 バスは急発進した。

 そしてバスは左へ曲がった。

 
 (えっ?)

 顔を上げた蛍子ちゃんが涙顔でありがとうありがとうと言い、美都ちゃんもありがとーありがとーと繰り返した。


 6割方うまった乗客たちは無言だった。皆、口を真一文字に閉じていた。

 (うわー遅刻だー)

 私は、まっ仕方ないかぁと息をはいた。

 バスはスピードをあげた。

 停留所を2つ越え、3つ目の病院前の停留所で停車した。

 運転手さんは黙ったままで前の扉を開けた。

 「早く行ってやりな。お母さん大丈夫だといいね」

 左側の優先座席に座っていたお婆さんが声をかけた。

 「気をつけて」

 その後ろのおじさんが声をかけた。

 蛍子ちゃんはひとつ頷くと、ランドセルにくくり付けてある定期入れを料金箱に当て

 「これでいいの?」

 運転手さんは白い手袋をはめた左手で、いいからいいからと合図して女の子に降車を促した。

 美都ちゃんも蛍子ちゃんのあとをおってペタッと紐でつながれた定期入れを料金箱に当てて、口でピッと言ってバスを降りた。

 乗客は窓の外に目をやり女の子たちの後ろ姿をしばらく見ていた。

 見送る運転手さんのミラーに映る両方の眼は暖かかった。
 
 やがて運転手さんは、うんとうなずき、両の眼は冷たく鋭い眼に変わった。

 バスはUターンを試みた。

 二車線の幅でバスは何度も何度も切り返しをした。

 もう二人の姿は見えず、通勤に焦る乗用車たちのクラクションが鳴り響いていた。

 必死にハンドルを切り返す運転手さんの前に木藤篤良の名札が揺れた。

 お父さんの口ぐせの「始末書かあ」を思い出したとき、

 Uターンに苦しむバスのエンジン音と

 前後から鳴り響く乗用車たちのクラクションの音が

 輪唱し

 ○○○○

 の

 ××××××

 の歌の音符となり

 やがて曇り空に

 ゆっくり舞い上がっていった。