「……お風呂、そこだから、入って」
「……え」
「身体、冷えてるでしょ」

 赤みを帯びた目尻に向かって、思わず伸びそうになった手を必死に抑え、「おじゃまします」と控えめに音をこぼせば、廊下の途中にあるふたつの扉の内のひとつ、奥側の方を指差して彼女はまたぽつりと言葉を吐き捨てた。
 確かに、冷えている。くしゃみもでた。何なら少し寒気もする。

「……いい、のか……?」
「風邪こじらせて肺炎になって死にたいならそのままでいれば」

 彼氏に疑われねぇか? 前科があるわけだし。
 なんて、建前だけの遠慮を脳内で並べ立てたあと、肺炎にはなりたくねぇし、死にたくもねぇなと、彼女の言葉に甘えることにした。

「……こういうことするから、俺みてぇなのに付きまとわれてるんだって自覚、ねぇのか……あいつは」

 玄関を開ける前に溜めておいてくれたのだろう。シャワーだけ借りるつもりだったのに、単身者用にしては少し大きめのバスタブに溜められたお湯が芯まで冷えていた身体を温めてくれる。
 息を吸って、止めて、頭の先までお湯に()かる。
 赤く滲んだ目尻。あれはどう見ても、泣いた痕だった。彼氏と何かあったのだろうか。もちろん俺は、何かあって、できれば修復不可能なぐらいにもめていて、別れていて欲しいと思っているし、仮にそうだとしたら俺にとってはこの上ないチャンスだ。けれど、彼女がひとりで、俺以外の男のことで泣いていた痕跡を見せられるのはなかなかに堪える。

「……っ、」

 水中から顔を出して、息を吸う。
 自分でもひどい人間だと思う。今さら過ぎるだろう、と。
 でも、やっぱり、ダメだ。
 欲しい。彼女が。
 戸津井奏海が、欲しくて、欲しくて、堪らない。

「……ちょっとでいいから、見てくれねぇかな……俺を」

 ひりついていそうなあの目尻と、己が今おかれている現状に賭けてみるか。
 そうだな、そうしよう、と独りごちて、ざぶりとお湯を揺らしながらバスタブを出た。