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ばしゃん、と私の四肢は水に打ち付けられた。小学生の頃にプールの飛び込み台から飛び込んで身体を打ち付けた時のような感覚に陥りながらも、状況判断をすることに専念せざるを得なかった。
いつものように大学から帰ってきて家に入ったところまでは覚えているのだが、そこからの記憶が全くないのだ。家の玄関に水に落ちるように細工された落とし穴なんてあるわけがないし、視界の広さや落ちた衝撃で口に入った水の塩辛さを加味して考えた結果、ここが海のド真ん中であることは間違いなさそうだ。

「…ちゃんと水は冷たい。頬を捻れば痛いから…夢じゃない…?」

驚きや焦りもキャパシティを大きく上回ってしまったようで、案外落ち着いている自分に苦笑いを零しながら身の安全について考えていた。このままでは体力が尽きて浮かんでいられなくなるのも、そう遅くはない出来事だ。泳いで陸を目指すしか助かる術は無さそうではあるのだが、辺りを見渡しても広がるのはどこまでも青い色だけで、思わず孤独を感じた。
そうしているうちに水分を吸った服が身体に纏わり付き、私の体力を容赦なく削り始める。身一つで海に漂う私の意識は、どこか遠くで響く汽笛の音を耳にしたのを最後に、あっけなく黒に飲まれたのだった。


どれほどの時間が経ったのだろう。目が覚めた私の視界に飛び込んできたのは、見覚えのない無機質な空間だった。必要最低限の家具が揃えられており、部屋の端に置かれた机の上に何枚もの紙が積み重ねられていた。先程まで部屋の主が居たのだろうか、椅子の背凭れには無造作に服が掛けられていた。

「起きたのか」
「!」

不意にドアが開けられて、男性が入ってきた。もちろん見覚えなどあるはずもなく、どうしたらいいのか戸惑っていると男性が言葉を続けた。

「俺の名前は長門だ。女、お前の名前は何と言う」

鋭い目付きで視線を寄越されて、少し萎縮してしまう。長門さんは徐に椅子に掛けてあった服を手に取ると、それを羽織った。
その姿を見た私が驚きを隠せなかったのは、勇猛や威厳といった類いの感情が押し寄せてきたからという理由だけではなく、ただ脱ぎ捨てられていただけに見えた服が、途方もない現実を私に教えてきたからだった。

「須藤陽菜です」
「では、須藤。…お前は一体何者だ」

双眼が細められ、まるで品定めでもされているかのような感覚になる。
歴史の教科書で見掛けたことのある海上自衛隊の制服とよく似たそれは、似ているがよく見れば違うものだった。私の仮説が正しかったとして、そんなことが実際起こりうるのだろうか。そして、このことを正直に長門さんに話したところで信じてもらえるかどうかと言われれば、その可能性は低い。
一向に答えようとしない私に痺れを切らしたのか、長門さんが再び口を動かした。

「お前は海に浮いていた。その身形では他の艦の乗組員というわけでもないだろう」
「…はい、」

今更になって真実を確かめるのが怖くなってしまった。私の仮説がいよいよ現実味を帯びてしまうのが、怖かった。私の帰る場所がこの世界のどこを探しても無いのだということを知ってしまうのが恐ろしくて、思わず布団に顔を埋めた。

「どうした、具合でも悪いのか」
「…もしかしたら、夢なんじゃないかと、夢であればいいと願っていました」
「………」
「…私が生きていたのは20XX年で、元号は昭和から平成、そして令和へと移ろいました。…あなたの姿を見て思ったんです。多分、ここは私が生きていた時代ではなく、それよりも過去の時代かもしれない、って」
「時代を越えてきた、と?」
「あり得ないことを言っているのは分かっています。でも、…そうとしか考えられない…!」
「…顔を上げろ」

半ば強引に後頭部を掴まれ、長門さんの方を向かせられた。溢れた涙が重力に逆らうことなく頬を伝って落ちていくのが分かり、そこでやっと自分が泣いているのだということを知る。出来ることなら自分の仮説が間違っていてほしかったのだが、現実は現実しか与えてくれなかったようで、いっそのこと気を失ってしまいたかった。そうして目が覚めたのなら、全てが夢でありますように。

「随分と飛躍した話だが、その話に付き合ってやろう。今は19XX年で、この時代は戦いの真っ只中にある。…令和、だったか。その時代は平和か?」

長門さんと目を合わせたままの姿勢で問いを投げ掛けられ、目を逸らすことなく答えた。目を逸らしてはいけない、強くそう思った。

「…日本は…戦争をしてはいけないと憲法で決まっているので、平和になったと思います。世界では戦いが絶えないところもありますが…」
「一つ聞くが、…日本はどうなったんだ」

現代人ならば誰もが答えを知っているであろう質問に、息が詰まりそうだった。日本は負ける、その真実を伝える訳にはいかないことなど十分に理解しているがために、どう返事をすればいいのか分からなかった。私の表情から何かを察したのか、長門さんは後頭部から手を離してベッドの端に腰を掛けた。合わせられていた視線が外されて、私の視線は長門さんの背中に預けられる。

「…あの、」
「お前は生きているんだな。この先で」
「長門さんの繋いだ、この先の未来で、私は生きていますよ」

すっと長門さんの背筋が伸びる。再び長門さんと視線を合わせた私の瞳は、未だに泣いている気がした。

「須藤、…お前が元の時代とやらに帰る時までここにいるといい。お前が居た時代と違って平和ではないが、それまでは俺がお前を守ると誓おう」

その言葉を聞いた瞬間、緊張の糸が途切れた思いがした。自分が思っていたよりも遥かに多くの色々な感情がごちゃ混ぜになって張り詰めていたらしく、先程よりも幾分か表情の柔らかくなった長門さんの身体に抱き付いて、ついに声を上げて泣いてしまうのだった。
そんな私を彼は決して突き放しはしなかった。遠慮がちに背中に回された腕が少しばかりの間、この非現実のような事実から私を遠ざけてくれるように感じられた。


着替えを貸してもらい、海水に浸かった服とはオサラバする。気に入っていた服だったが、仕方がない。貸してもらった服は長門さんの物とのことで、袖を通すと随分大きかった。私との身長差を鑑みると恐らく180cmくらいはあるだろう。ズボンに至っては、ベルトで縛らないと落ちてきてしまう。

「着替えたか。…ふむ、大きいな。まァ、海水に濡れた服を着ているよりはマシだろう? もうじき、妹の陸奥と合流する。それまで我慢してくれ」
「…妹? 妹さんも軍人さん?」

会話に落とされた単語に、疑問符を投げた。私の記憶が正しければ、戦時中に女性の軍人はいなかったはずだ。

「…俺の名前は長門型戦艦一番艦長門という。妹は、長門型戦艦二番艦陸奥だ。俺達は人間ではなく、戦艦の依り代と呼ばれる存在なんだ」

『戦艦の依り代』という聞き覚えのない言葉に首を傾げる。

「俺達の存在は後世には伝わっていないようだな。依り代は、その戦艦と共に生きる運命を背負っている。例えばこの戦艦長門が散るときが来たのなら、俺自身も散る。……光栄なことだ。こういった存在として生まれたことを誇りに思う」

生まれたときから運命が決まっていて、その事実を受け入れて生きている。長門さんと私は根本から違うのだ。私は戦いを知らない。知ろうとも、しなかった。平和は永遠だと、恒久的なものなのだと信じて疑わなかったのだから。
長門さんの言葉に私は何一つ言葉を返せないまま、沈黙が溢れた。そんな私の様子に気が付いたのか、長門さんは私の頭に手を乗せそのまま左右に数回動かした。

「…疲れただろう。陸奥が来たら呼びに来る。それまでここに居ろ」

頭に与えられた温もりが離れていくことに少しばかりの寂しさを覚えながらも、長門さんの後ろ姿を見送った。

思ったよりも軽い音で閉められたドアから視線を外し、天井を仰いだ。
私はこの時代には酷く似合わない。そして、異端だ。なぜ、この時代に来てしまったのだろう。戦争という単語と『戦艦の依り代』と呼ばれる存在。ただでさえ、この時代に生きる人々とは価値観が違うだろうに、加えて存在そのものが違う彼に私はどう接していけばいいのだろうか。
「令和が恋しい」など、今まで考えたこともなかった感情がふつりと湧いた。