私は彼が求婚してくれはじめた当初からずっと自分がヴィクターの隣にいていいのかという不安を見て見ぬふりをしていた。最初はこの求婚を断ろうと思っていた最たる理由、それがこの世界での自分の不確かな不安定さだ。

 いつかこの世界から突然消えてしまうかもしれないこと、その時にアリアナが戻ってくるのか、それともアリアナの身体は消滅するのか、それすらも分からない不安定さ。その不安定さを一番不安に思っていたのは私で、何故ならいつの間にか私はヴィクターの隣にずっといたいと願っていたから。

 あの聡いヴィクターがそのことに気づいていないわけはないだろう。その上で私に求婚してくれていたはずだ。私の行動は、誠意ある彼の今までの言葉を全て台無しにしてしまったのだ。

(―――戻ろう)

 戻らなくてはいけない、ヴィクターのところへ。彼と話をしなくてはいけなかった。私がしなければならないことは逃げることではなく、自分の存在の不確かさを認め、ヴィクターと一緒にいたいと彼に伝えることだった。あの令嬢ではなくて、不安定な私を選んでほしいと、伝えるべきだったんだ。

――――パシャン

 その時水たまりを踏みしめる音がして、後ろから暖かい、がっしりした腕が私のことを強く抱きしめた。

「ヴィクター」

 彼はこの腕一つで私をここまで安心させてくれるのか。

 私は泣きながらも、そろそろと手をあげて、彼の腕をぎゅっとつかんだ。彼の洋服にもぐっしょりと雨水がしみ込んでいて、彼がずっと私を探してくれていたことを物語っている。

「凛音……お願いだ、もう泣かせたくなんかないんだ、どうか話を聞いてくれ……俺を捨てないで」

 彼が私を離すまいと力を込めながら、耳元で懇願する。

「違う、ヴィクター。私こそ……ごめんなさい……」

 彼が自分を見つけてくれて安心したせいか、そしてその言葉を最後に、私の意識は遠のいていった。

 ☆☆☆

 目覚めたのは二日後だった。

 か弱いアリアナの身体はあの冷たい雨に長時間さらされたことに耐えきれず、高熱を出し、肺炎を併発しかかっていた。もうちょっと処置が遅かったら本当にどうなっていたかは分からない危ない状態だった、と聞いた。
 私が意識を失った後、動揺するヴィクターはしかし私を抱き上げてすぐに王宮の離宮にあるエリックの私室に運び込んだ。医者を呼び、それからはずっと寝ずの番をしてくれていたという。彼の適切な判断で私の命は救われた。

「もうねー、リンネをかついですごい勢いで走ってきて有無を言わさず俺のベッド横取りしてさ。しかも見たことないほど真っ青で。あんなに焦ってるヴィクター初めて見た」

 とは、先ほどやっと食事に行ったヴィクターと代わって、ベッドサイドで私を看病してくれているエリックの言葉。エリックは私にベッドを譲って、部屋のソファーで寝ていたという。こうやって何でもないことのように、明るく喋ってくれているのはエリックの優しさだと分かっている。

 先ほど私が目覚めた時、ヴィクターが見たことのないくらいやつれていて、髭も生え、衣類も乱れているので彼こそ具合が悪いのではと心配になった。彼に体調は大丈夫かと聞くと、自分のあまりに掠れた声に驚いた。彼は無言でぎゅっと私を抱きしめてきてしばらく離さなかったし、その腕は震えていた。自分の浅はかな行動で心配をかけて、迷惑をかけてしまった、ヴィクターにも、エリックにも。

 だから。

「リンネ、ちゃんとヴィクターのこと好きだったんだねぇ」

 にやにやするエリックに揶揄われることくらいは我慢しないといけない。