「いいけど、そうしたらヴィクターこそ私から逃げられなくなるよ? それもいいの? やっぱりこんな変な奴って思っても私に縛られちゃうよ」

 呆然としているようにみえるヴィクターに向かって、尚も言葉を続ける。

「私はきっと永遠におしとやかにはなれないし、大人しくもできなくて家の中で動き回ると思うよ。そのうちつまらないなって、仕事を探したりするかも。それでもいいのかな」

「凛音!」

 向かいの席に座っている彼が我慢できないといった風に長い腕を伸ばして私をぎゅっと力強く抱き寄せた。紳士であり理性的な彼は、求婚すると決めてからもずっと節度ある距離を保っており、別れ際にせいぜい手の甲に口づけるか、エスコートするときに腰に手を軽くあてるくらいだったので、突然の抱擁には彼の望外の喜びが凝縮されていた。彼の膝の上に引き寄せられ、私より体温が高くて、厚みのある胸板に抱きしめられるのはとてつもなく心地よかった。

「したいことはなんでもしてくれていいんだ。それに凛音から逃げられなくなるなんてそれこそ願ったり叶ったりだ。ずっと隣にいてほしい」

 私は彼の腕の中で、その男らしい整った顔を見上げた。彼の瞳を見ているうちに、この世界でやっと私の居場所を見つけた、この答えは正解だったんだ、という喜びが湧いて、私の瞳がみるみるうちに潤んでくる。決して誰かの恋人になること、妻になることが目的だったわけではないが、彼のような理解者を見つけられたことが何よりも嬉しい。
ヴィクターが自分の親指で私の涙をそっと拭ってくれる。

「うん。私も側にいたい」

 彼の唇が下りてきて、初めてのキスの予感に私はそっと目を閉じた。いつの間にか馬車は侯爵家に到着していたが私たちはいつまでも抱きしめ合っていた。

 ☆☆☆

 三日後、私は王宮のほど近くにあるシュタイン公爵家の別邸に客人として招かれていた。

 ヴィクターは仕事の話をするべく先に王宮に出かけており、私のことを迎えに来るエリックの到着を待っていた。初めて訪れた首都は、私が住んでいる街とは比べものにならないくらいの都会で栄えており観光名所もたくさんあるとかで、ここまで来る馬車の中で、ヴィクターは仕事の話と王太子の謁見が終わり次第、私に首都をみせて回りたいと言っていた。

 久しぶりに会う兄が、あり得ないくらい、にやついて登場した。

「アリアナ!」

シュタイン公爵家の召使たちの前なので、彼は私のことをアリアナと呼んだ。

「お兄様」

 私がここ1年で覚えた貴族令嬢の礼で兄への親愛の情を示すと、彼はにこにこして、侯爵家の馬車へとエスコートしてくれた。今日は今から王宮の彼の騎士団エリアに連れて行ってくれるのだ。馬車に乗り込むと、エリックは機嫌よく笑った。

「ついに観念して、ヴィクターと婚約することにしたんだね」

「観念してって……話早いね」

「さっきヴィクターと王宮ですれ違ってさ、あのにやけた顔をみたら一目瞭然だよ」

「はは」

 思わず苦笑する。どんな顔をしていたのかは何でだろう、簡単に想像がつく。兄にどれだけ揶揄われるかと思いきや、意外にもエリックは真面目な顔をして私を見つめていた。

「ヴィクターは、俺が言うのもなんだけど、本当にいいやつだよ、リンネ。幸せにしてもらうんだよ」

 ☆☆☆

 兄が王宮の入り口で私の手を取って馬車からおろしてくれた時、ちょうど向かいの渡り廊下をヴィクターと何人かの貴族たちと思われる若者が歩いているのが見えた。

 ――その時。

「ヴィクトル様! ついに私の元へ戻ってきてくださったんですね!」

 見たことのない美しいご令嬢が私たちの隣を通り抜け、彼に駆け寄っていくのがスローモーションのように見えた。