エリックに、アリアナが記憶喪失だ、と告げられた後、仕事の話があると2人で部屋を出た。

「俺の私室でいいか」

「ああ、頼む」

 俺の私室は、アリアナを残してきた部屋からほど近い。子供の頃から親しいエリックもよく知っている部屋だ。中に入り、人目がなくなったらすぐにエリックにもう一度尋ねる。

「アリアナは本当にただの記憶喪失なのか」

 まるでまるっきり別人だというような、違和感がどうしてもぬぐえない。しばらく黙っていたエリックからの返事は簡潔だった。

「俺からは言えない」

「エリック……」

「君にアリアナのことを話した理由はただ一つ。この舞踏会が終わったら俺は騎士団の仕事に戻らないといけない。父上はきっとアリアナを連れていくつか夜会に行かないといけないだろう――俺は傍にいられないから、事情を分かっている君にエスコートを頼みたいんだ。何も言わずに受けてくれると恩に着る」

 俺は目を丸くする。

「エリック――お前」

「これ以上何も言わないでくれ」

 親友の拒絶にぐっと言葉を飲み込んだ。

「父上には、君がアリアナのエスコート役をしてくれることを俺から言っておく――アレクとシュザンナにも、アリアナの記憶喪失のことは話してくれて構わない」

 そこでエリックが話を切り上げ、さぁ仕事の話をしようと明るい口調で付け加えた。俺は親友のことを知りすぎていた―――彼がこれ以上一切口を滑らすことはないということを。


 ☆☆☆

 仕事の話が終わると、エリックが今のアリアナがいかに魅力的であるかという話を俺にするからまたしても驚く。明日の朝には王宮に戻らないといけないエリックが、俺のエスコートの件を父上に話してくるからよかったらアリアナを連れて大広間に戻ってきてくれないかというので了承した。

 部屋を軽くノックしてから室内に入ると、アリアナは窓辺で庭園を眺めているようだった。

「アリアナ、エリックが侯爵のところに行くから俺が来た――」

 振り返ったアリアナの瞳には涙がいっぱいたまっていて、伝わってくる悲痛さに思わず手を出して、彼女を慰めたい、この涙をぬぐいたい衝動に駆られる。

(こんなこと誰かに思うのは初めてだ―――)

「ヴィクトル様」

 彼女の声は震えてはいたがしっかりしていた。アリアナが瞬きをすると涙がこぼれた。彼女はそれを先ほどエリックに渡されたハンカチでさっと拭うと、気を取り直したかのように笑顔を浮かべた。

「お見苦しいところをお見せしました、ごめんなさい」

 そして俺の肩越しに、テーブルに置かれたままの陶器を見つけた。

「メイドが持ってきてくれてたんですね―――気づかなかった」

 彼女は俺を通り過ぎてテーブルに寄ると、そっとその陶器に手を伸ばした。彼女が独り言のように小さく呟く。

「気づかないなんて悪いことをしてしまった」

 そのまま椅子に座ると、黙って飲み干す。その礼儀作法は確かに貴族令嬢のものに則ってはいたが、普通の貴族令嬢であればメイドのことなんて気にするわけがない。ましてや気づかなくて悪かった、などと。持ってきてくれた茶が無駄にならないように、きちんと手をつける、なんて。

 俺は生まれて初めての胸の高鳴りに内心首をかしげながら、彼女を見守った。