すでに師匠の魂はここにはない。あるのは生前の妄執……朱華が十七の齢を迎えたら、婚姻を結ぼうという、約束だけ。闇鬼は未晩の身体を乗っ取った後も、朱華を強く求めている。いや、闇鬼にしては、瘴気が感じられない。それに、朱華を手に入れるため、ちゃんと考えて行動している。闇鬼だったらすぐに朱華を自分のモノにして嬲り殺すだろうから……きっと、師匠は魂を幽鬼に喰われたのだ!
 朱華はどうにかして時間を稼ごうと思考をめぐらせる。そういえば昨日と一昨日の記憶が思い出せない。師匠が闇鬼に堕ち、幽鬼にすべてを奪われたのは、その空白の二日間に違いない。
 不思議と、その前の記憶はまざまざと思い出せる。まるで、過去を封じていた扉が、鍵で簡単に開いたかのように。


   * * *


 自分はいまはなき雲桜で生まれた紅雲の娘。『(フレ・ニソル)』の強い癒しのちからを持っていたが、十年前に一匹の白い蛇に甦生術を施したため、花神である茜桜が御遣いの帰蝶とともに張り巡らせていた結界を綻ばせ、幽鬼の侵入を許してしまったのだ。
 結果、雲桜は滅んだ。朱華に強大な『雲』のちからを与えた花神と帰蝶も死に、集落の人間も多くが幽鬼と闇鬼の手に堕ちた。幼かった朱華は茜桜によって守護されていたが、禁術を使ったことで起こった悲劇の原因が彼女にあると悟った父に、殺されそうになった。

 ――お前は花神さまの寵愛を良いことにっ……!

 氷の剣の切っ先を心の臓目がけて襲ってきた父。言い訳は叶わなかった。
 あのとき、死ぬことができれば、こんなに苦しい思いはしなかったはず。
 それなのに、死んだのは父だった。怯えた朱華が無意識に術を発して氷剣を一瞬で砕き、その破片を父に降らせてしまったから。血に濡れた父を前に、朱華は絶叫した。

 禁忌とされる甦生術をつかうことは、もはやできなかった。


   * * *


「あたしは、おとうさんを殺した……」
「そんなことはないよ。自分の生命が危機にさらされていたんだ……本能的に防衛しただけなんだよ」

 そのとき傍にいてくれたのが、旅の途中でこの騒ぎに巻き込まれた未晩という青年だった。彼は『雲』とは異なるちからで、雲桜を滅ぼした幽鬼の王を斃した。その方法は、自分の身体のなかに、闇鬼として閉じ込めるという、神の加護を持つものからすれば考えられないもの。