懐かしい匂いがする。診療所の裏庭で育てられた香草の、爽やかで落ち着く香り。
 朱華はゆっくりと瞼を持ちあげ、目の前で心配そうに顔を覗き込む未晩と視線を絡ませ合う。

「師匠?」
「おはよう、朱華」

 布団から抱きあげられてそのまま額へ口づけを受ける。いつもと同じ、穏やかな朝のはじまり。

 ――なんだか、悪い夢を見ていたような気がする。

 けれど朱華はそれを覚えていない。未晩はいつもと代わり映えのしない薄荷色の衣を纏い、朱華の代わりに麦飯と青菜の汁を準備している。いつもと同じ、質素な食事。

「……いただきます」

 両手を合わせて食事をはじめる朱華を、未晩は慈愛を込めた眼差しで見つめている。

「師匠は、食べないの?」
「もう食べた」

 だからいまはいらないと言って、朱華の隣で横になる。問答無用の膝枕だ。

「師匠、あたしまだ食事中なんですけど……」
「気にするな」

 いえ、気になります。と思わず言おうとして、違和感に気づく。

 ――師匠って、こんな喋り方してたっけ?

 つきん、つきんと頭の片隅で痛みが生じる。まるで何か大切なことを忘れているかのよう。

「それより師匠、診察の準備は」
「今日は休診だ。そんなことより朱華、朝飯食ったら準備を始めるぞ」
「……準備?」
「忘れちゃいないだろう? 明日、お前の十七の誕生日。花残月の朔日に、オレとお前は夫婦神となるのだ。華燭の儀を神殿で執り行うため、邪魔な竜神どもを追いだすんだよ」

 ぶっ、と青菜の汁を勢いよく吹き出す朱華に、未晩が首を傾げる。

「そ、そんな罰当たりな……師匠、本気で?」
「無論。朱華がこれ以上苦しまないためだ。わからぬのなら、教えてやろう」
 カタン、と卓に乗せられていた食事がひっくり返る。座っていたはずの朱華の身体もひっくり返って、その上に未晩がのしかかっている。
「師匠?」
「オレだけの朱華。おまじないをしてあげよう。いつものものよりも強力な、神封じの(まじな)いをな」

 翡翠色だったはずの未晩の双眸は、血のように赤く染まっている。まさか、師匠が闇鬼に堕ちたの? 悲鳴をあげることさえできず、朱華は顔を真っ青にしたまま、未晩に問う。


「……神封じ、って何を封じるの」