人間に身をやつしていようが僅かに発する忌わしい神気が、幽鬼となった未晩の顔をひきつらせていた。夜澄の月色に煌めく瞳を見て、未晩は思い出したように声を荒げる。

「貴様、見覚えがあるぞ。殺してやったと思ったのに朱華の禁術で生き返った死にぞこないの蛇神だな! 貴様だって、朱華が持つ世界をも変える『雲』のちからを欲しているのだろう? だから竜神に渡すこともせず、自分の手で、彼女の記憶を戻したんだ」
「それ、ほんとう?」

 背後からか細い声が響き、夜澄と未晩が同時に振り返る。

「朱華」

 あけはな、と呼ぶ夜澄とはねず、と呼ぶ未晩の声が重なり合う。

「起きて大丈夫なのか、まだ、記憶が」
「迎えに来たよ、朱華。記憶を変えられようが、また元に戻してあげるよ」

 夜澄の心配する声と、未晩の嬉しそうな声が、ゆっくり立ち上がった朱華の耳元へ同時に届く。朱華の瞳は沈んだ紫色に濁っていた。ふたりの声に、気づいていないようだ。
 やがて朱華はぶんぶんと首を振り、顔を真っ赤にして叫ぶ。

「嘘よ!」

 どちらに向けて告げたのか、いまいち理解に苦しむ夜澄と未晩は、朱華の言葉のつづきを逃すまいと耳を欹てる。菫色の双眸は、深い紫のままだ。

「あたしがいま、手に入れた記憶は、真っ赤な嘘。そうよね?」
「そうだよ朱華。忌わしい蛇神が朱華を自分のモノにするために仕組んだ罠さ。ほんとうの記憶は、オレが与えただろう?」
「何を莫迦なことを! お前がほんとうのことを知りたいと口にしたから、俺は……」
「夜澄、ごめんなさい。こんなことをしたあたしが裏緋寒の乙女だなんて、間違っている。こんな記憶なら、知らなきゃよかった。神嫁になんか、なれるわけないよ。師匠、怒ってる?」
「怒ってるわけないだろ? 朱華はただ、神々に翻弄されただけさ。まったく、神に逆らう逆さ斎からすれば、許せないことだがな」

 未晩の禍々しい瞳を見ても、朱華は恐怖を感じることなく素直に口を開いている。彼はもうお前の師匠じゃない、お前の故郷を滅ぼした幽鬼なんだ、騙されるな……! そう叫びたくても、朱華が夜澄を見たときの、沈みきった紫色の瞳が、自分を拒絶しているようで、何も言えなくなってしまう。