「ずいぶん、騒がしいな」

 煌々と月に照らされた湖面を眺めながら、夜澄は呟く。西陽が沈むなか、記憶を取り戻すための接吻をして、数刻。空には欠けゆく銀月が鋭い刃のように猛々しく天空に浮かんでいる。
草むらに横たえられた朱華は意識を失った状態で、頭だけ草むらの上で胡坐をかく夜澄の膝の上にもたれかかっている。いまは改竄された記憶を遡り、夢のなかで追体験をしているところだ。時折苦しそうな呻き声を漏らしてはいるが、夜澄が玉虫色の髪を撫ぜてやると、寝息は安らかなものへと戻る。今夜いっぱいはこの状況が続くだろう。
 だが、神殿の周りではただならない神気があちこちで勃発している。自分が発したものだけでなく、至高神や、それ以外のよくわからない気配まであるため、夜澄は事態を把握できずにいる。

「そりゃ、あちこちで神々が勝手な動きをはじめているからな」

 ぎょっとして振り向くと、そこには銀髪の青年が立っていた。

「お前……」
「朱華を返してもらいに来た。桜月夜の盗人」
「誰が渡すか!」

 背中に朱華を隠すように動いた夜澄は血に染まった衣を纏った未晩をキッと睨みつける。

「可哀想な朱華。オレの施した甘い記憶を、こんな男に奪われるなんて」
「彼女は自分から記憶を取り戻したいと願ったんだ。俺は奪ってなどいない。記憶を奪っていたのはお前の方だろう!」

 未晩の双眸は禍々しいばかりの血赤に染まっている。幽鬼と融合しているように見えたが、ついに飼っていた闇鬼に牙をむかれて堕ちてしまったようだ。これはすでに人間ではない。それに、夜澄には覚えがあった。この、幽鬼の圧倒的な雰囲気に。

 ――あのときの……雲桜で俺をいちど殺した(・・・・・・)幽鬼か。

 十年前。雲桜が滅び、竜糸に流行病が起きたとき。夜澄は裏緋寒の乙女を探しに集落の外に出て、そこで見つけた『天』の少女とともに、幽鬼に襲われた。裏緋寒の乙女は殺され、あのとき逃げ込んだ雲桜で、夜澄もまた、死んだと思ったのだ。

 ――幼い少女が施した禁術によって、甦ったことを知るまでは。

「朱華はオレだけのものだ。オレのちからを強くする妻神となるのだ」
「彼女のちからを狙っていたのは、逆さ斎ではなかったのか?」
「どうだったかな。混ざっちまったからわからねぇや。オレはその逆さ斎であり、雲桜を襲うと決めた幽鬼の王でもある。名前は忘れちまった、オレは雲桜を滅ぼす際にこの逆さ斎の体内に闇鬼として封印されちまったからな……とはいえ完全に浄化はされずにいたから機会をうかがっていたのさ。こいつの身体を自分のものにする機会をさ。だというのに至高神はそれに気づかないふりをし、逆さ斎の奴を朱華の番人にして、竜神の花嫁にしようとした。逆さ斎は彼女に恋しただけだ。その理由が封じられた強すぎるちからにあるのかは知らぬ。とはいえ彼女に強大なちからが秘められているのなら、利用しない手はない。貴様だってそうだろう?」