ぱたぱたと走って行った少女の姿が裏庭から消えたのを見て、星河が疑わしそうに夜澄に問う。

「あれが、裏緋寒の乙女? 加護術すらまともに使えてないではないか」

 どう見ても見習いの薬師にしか見えないと言いたげな星河に、夜澄は真顔で応える。

「前世の記憶を持つお前が認めたくないと思うのは勝手だが……俺たちの気配に感づいていただろう? 間違いない、彼女だ」

 土地神の花嫁候補。里桜の鏡とも呼べる裏緋寒。竜糸に暮らす少女のなかで、神術に秀でたものが選ばれるのは事実だが、桜月夜の守人のなかでも総代にあたる夜澄は、一目見ただけでそれが誰なのか判別できるちからを持っていた。
 すなわち、土地神の加護を存分に受けた生粋のカイムの民、もしくは土地神に委ねられた神術の使い手。神々に愛されることはもちろんのこと、北の大地に点在する集落でそれぞれに民と暮らす土地神の加護、またはそれに準ずる神謡の文言を古くから受け継いだものにしか、神職に携わる資格は存在しない。
 現に、土地神の加護を代々受け継いだ星河は生誕の地である『雪』の加護と竜神に仕える原因となった前世の記憶を持っている。同じ桜月夜の守人であり星河たちより遅れて入ってきた颯月(さつき)もまた、『風』の加護を持ちながら他の神術を常人以上に扱える。
 夜澄に至っては眠りにつく以前の竜頭を知る数少ない人間で、雲桜よりもはるか昔に滅びた『雷』という特殊な部族の末裔である。

 カイムの地で生きる民には生誕した集落の土地神の加護がそれぞれ少なからず与えられている。それは『雨』、『雪』、『風』、『雲』、『雷』という五つに分類され、彼らを総括する始祖神とその姐神(あねがみ)とされる至高神のもとで定められたものとされている。だが、『雲』と『雷』の生粋の民は幽鬼によって滅ぼされてしまった。滅びる前に集落をでた民もいるにはいるが、ごく少数の彼らは自分たちが生まれた土地を離れた間に生地の土地神を失ったことでちからを奪われ、いまでは混血によってわずかな加護しかない人間ほどのちからしか持っていない。
 先祖がえりなどの例外も存在するが、それ以外では里桜のような逆さ斎の契約を交わした者か至高神が気まぐれに産み落とした天神の娘と呼ばれる『天』の一族くらいだ。

 さきほど星河たちが見定めした少女からは、そのカイムの生粋の部族特有のしるしはなかった。瞳の色や髪の色からあらかたどこの部族か識別することはできるが、夜の帳が下りたいまの状態で見分けるのはやはり心もとない。

「……生粋のカイムで竜頭さまの加護を受けているのなら『雨』なのだろう?」
「そのはずだが、さっき見ただろう? ルヤンペアッテがあんな雨しか降らせられないというのはおかしくないか? それに『雨』の民にしては髪の色が濃い。どちらかといえばお前の血筋に近いかもしれないぞ」

 星河の髪は暗い青味がかった黒髪である。これは『雪』の血が濃いほど青味が深くなるとされ、他の民の血が交わるたびに薄くなるとされている。竜糸に暮らす住人の多くは土を潤す『雨』の加護を持っているため明るい栗色や茶色の髪をしている。
 さきほど見た少女の髪色は、『雨』の加護を持つ者にしては、色素が濃く、遠目からだと茶色と言うより黒にしか見えなかった。だが、夜澄の闇夜を彷彿させる漆黒ともまた違う。

「いや、『雪』の青みにしては、緑がかった赤みが気になる。ふつうに考えれば『雨』の茶色なんだろうけど、颯月のような『風』の血が混じってる可能性も捨てきれないな……」
「そういえば、先代の裏緋寒は『天』だったな」

 星河の思考を遮るように夜澄が声をあげる。