「水兎」

 物思いにふけっていたからか、星河に前世の名を呼ばれてしまった。雨鷺は慌てて顔をあげ、星河になんでもないと言い返す。

「なんでもない? どうせ竜頭さまのことを思い出して溜め息でもついたのでしょう?」

 星河は雨鷺が前世の恋人の生まれ変わりだと言って、自分が神殿へ連れられた頃から、なにかと雨鷺にちょっかいを出してくる。たしかに雨鷺は産まれた頃から竜頭に兎というふたつ名と御遣いとしてのちからを与えられているが、だからといって自分の前世が竜頭の棲む湖に沈められた裏緋寒の乙女だなどということは信じられないでいたのだ。
 だが、代理神の大樹に乗り移って対話を行った際に、雨鷺はそれが真実であることを知ってしまった。そして、その記憶に囚われた前世を持つ青年、清雅(せいが)が、星河という名で生まれ変わっていたということも。
 竜神の御使いが兎だという話は竜糸でも公にされていない。カイムの集落の神殿を管轄する北の神都、潤蘂(うるしべ)にははるかむかしに黒い蛇が御遣いとして崇められていたという記録が残されているが、いまや長い眠りについている竜神の傍に、御遣いは存在していないと大半の『雨』の民は考えている。
 だが、竜頭は酔狂なことに花嫁という生贄として投げ込まれた少女をふたたび生まれ変わらせ、その身に御遣いのちからを宿させたのだ。通常、御遣いは魂のみの存在のため、人型に姿を転じてもかたちを長い時間保つことは難しい。だが、生身の肉体を持つ雨鷺に御遣いのちからを与えた竜頭は、彼女をふたたびこの世へ送りだした。

 ――かつて禁断の恋に苦しんだ前世の恋人と、ふたたびやり直させるため。

「裏緋寒と桜月夜の恋は、禁忌とされていたけれど、御遣いと桜月夜の恋なら、なんの問題もなかろうに」

 大樹の口でそう言って、竜頭は雨鷺と星河を引き合わせたのだ。

「……竜頭さまが本格的に覚醒しても、星河さまは、わたしの傍にいてくださる?」

 雨鷺が呟くと、星河は当り前ですときっぱり告げて、彼女の身体を抱きしめる。


「――あの、盛り上がっているところ、申し訳ないのですが」


 ふたりがギョっとして顔をあげると、そこには湯あたりで気を失っていた朱華が寝台から起きあがって困惑した表情を浮かべている。