「……なによ、これ」

 里桜は水鏡にうつる自分の姿に唖然とする。
 月の影のなりそこない、逆さ斎でありながら幽鬼と手を組んだ未晩に忌術を施されたのは昨日の夜。あれから騒がしいと夜澄の身体を依代にして竜頭が現れ、神殿内の邪気を払ってくれてはいたが、呪詛は里桜の身体に刻まれたままになっていた。

「こんなに早いなんて……」

 蒼白な表情で紫に近い唇を震わせ、里桜は両腕で己自身をきつく抱きしめる。
 水鏡の向こうに映るのは幼いころの自分……烏羽色の髪と瞳の、『雲』の姿。
 朝衣の上を波打っている黒々とした髪。それを見つめる同じ虹彩の双眸。
 未晩は逆さ斎のちからを土地に還元すると言っていたが、だとしても早すぎる。

「――土地に仕える逆さ斎が命ず……っく!」

 逆さ斎としてのちからは既に奪われてしまったのだろうか。里桜は土地のちからを呼び寄せ、手の甲に刻まれた呪詛を破ろうとしたが、言葉を唱えはじめた途端に生じた激痛に、声を失ってしまう。

「……詠唱できない?」

 そんな莫迦な。
 里桜は何度か試みたが、完全に唱えることは一度もできず、逆に喉を痛めてしまう。

「表緋寒さま、お目覚めでしょうか?」
「――来ないで!」

 侍女見習いの少女の声が扉を叩く音とともに耳に届く。咳き込んでいた里桜は入って来てはいけないと叫ぶが、少女は無慈悲にも堂々と扉を開けはなった。

「表緋寒さま。恐がらなくても大丈夫ですよ」

 銀の髪が一晩で烏羽色へ変化した姿に気づいた少女は、怯えることもなく里桜へ近づき、俯いていた顔を強引に持ち上げる。頤に手をかけられ、口づけすらされそうな近くで視線を交わす。

「……お前は」

 里桜が侍女見習いの少女の名を口にし、抗うように術を放とうとするが、少女は「無駄ですよ」とくすくす微笑むだけで、怯えた里桜の瞳を満足そうにのぞきこむ。

「幽鬼ではなさそうね」
「妾をそのような下等なモノと一緒にするでない。神に逆らう運命(さだめ)を持つ表緋寒の逆さ斎よ」
「まさか……至高神!」

 彼女が、数多の土地神を産み落とした『天』の母神なのか? 不滅の生命を抱くがゆえに気まぐれに幽鬼と人間を争わせ、残酷なまでに息子たちを見放しながらその土地に暮らす人間を誘惑し自ら『天』の血脈を築き、弟神の『地』のちからで国を治める神皇帝の御世を好き勝手にかき乱す、かの国という箱庭で遊戯に耽る女帝のような、天空の姫神……
 里桜は実際に至高神と顔を合わせたことがない。だから、ほんとうに存在するのかも疑わしい天神が、侍女見習いの少女の姿を借りて、いま、逆さ斎のちからを殆ど失ってしまった里桜の前に現れたことに驚き、目を見開いたまま、少女の声を内耳に留める。