「逆さ斎のちからを奪うだと……」
「そう、幽鬼を斃すことのできる逆斎のその忌わしいちから。それさえなければ、貴女は表緋寒ではいられない」

 錆青磁の狩衣をまとった未晩は声高らかに宣言する。

「貴女のその髪と瞳の色を、もとの烏羽色へ戻しましょう。逆さ斎としてのちからを失い、ただの紅雲の娘に戻るのです」

 僕の、僕だけの朱華のように。
 そうすれば、表緋寒のしがらみから抜け出すことが可能だと、未晩は甘く囁く。

「その黒い印が完全になったとき、貴女の逆さ斎のちからは、地へ還元され、無に帰すでしょう。無理に術を解こうなどとは考えない方がいいですよ、死んじゃいますから」

 現実味を帯びない未晩の脅しを、里桜は黙ってきいている。現に右手の甲は黒い羽虫に皮膚を啄ばまれ、ところどころから出血をはじめている。この印が完成したら、自分が修めた逆さ斎としての術式が、消え去ってしまう。その恐ろしさゆえに、言い返すこともできずにいた。
「せいぜい術が完成するまで怯えていることですね。貴女が弱まり、竜糸の結界におおきな穴が開いたら、返してもらいますよ」

 では、ごきげんよう。
 未晩の姿が一瞬でかき消える。存在自体が幻だったかのように。
 緊張の糸が切れたかのようにがくりと膝が床に落ちる。
 けれど里桜はこれが現実であることを痛感する。右手の甲に施された逆斎のちからを無力化する呪詛。これは逆さ斎が使うことはまずない、忌術。

「……瘴気が、なかった」

 闇鬼に堕ちた人間なら、瘴気を身体中から迸らせているものだ。けれど、未晩からはまったく瘴気が感じられなかった。考えられる可能性はふたつ。ひとつは未晩自身がいまなお闇鬼を飼いならした状態でいるということ、そしてもうひとつ。

「……彼自身が幽鬼になった?」

 幽鬼は自ら瘴気の存在を操ることができる。もしかしたら未晩も瘴気を操れる幽鬼となったのではなかろうか。この竜糸に侵入している幽鬼と接触したことで。
 裏緋寒の番人として対面した桜月夜は彼が闇鬼を飼っていることから瘴気を払うことで難を逃れたが、裏緋寒を連れて行かれた未晩は、闇鬼を操るだけでは神殿に歯が立たないことに気づいたのだろう、それゆえ、幽鬼と接触を試み、自らの裡に飼いならしていた闇鬼と自我を同化させることにしたのだ。朱華を神殿から取り戻す、それだけのために彼は幽鬼と契約し、その身を幽鬼へ変化させたのだ。なんということ。

 未晩が消えてからも膝をついたままの状態で途方に暮れていた里桜の前に、清涼な空気が雪崩れ込んでくる。ハッとして顔をあげると、不機嫌そうな夜澄が突っ立っていた。

「なんだこの気配は」
「……逆さ斎が現れたわ」

 それだけ口にして黙り込んでしまった里桜を見て、夜澄はふん、と鼻を鳴らす。だが、視線を里桜の右手に移したことで、その表情は瓦解する。

「お前、その手……!」