「代理神が言ったとおりだ」

 夜澄はだらりと腕を弛緩させた朱華の手をとり、きつく握りしめる。
 雲桜の集落の結界を、朱華が破ったから、集落へ幽鬼たちが襲来したのだと。
 それだけ告げる夜澄に、朱華は何も言えなくなる。

「……あ」

 ――またお前は花神さまの寵愛をいいことに神術を使ったのだな!
 脳裡にこだましたのは、すっかり忘れていた父親の怒声。

「そんな」

 流行病で両親を失い、孤児になったんだと嘘を教えた未晩。
 だけど、ほんとうは……


   * * *


 雲桜が滅んだ日のことはよく覚えている。
 十年前。里桜がまだ、九重と呼ばれていた頃のはなしだ。
 早花月の下旬。その年は比較的暖かかったから、ふだんならまだ蕾の八重咲きの白い枝垂れ桜が盛りを過ぎ、すでに散りはじめていたのだ。そんな白い花びらが舞い散るなかで見た、幽鬼が襲ってくる前日の夕陽が、忌わしいほどに美しかったのだ。たぶん、それが予兆だったのだろう。雲桜が滅亡するという、予兆。

 九重の父親は雲桜の集落にある神殿の大神官だった。常に清廉な空気と白い浄衣をまとい、土地神である花王の神、通称「花神さま」に仕えていた。九重もまた、自分が生まれたときに花神から『雲』の加護を与えられ、神官の娘として父親の手伝いをすることもあった。
 花神さまには茜桜という名があったが、そのときの九重は彼と直に会話をすることはおろか、逢うことすら叶わなかったため、彼の名を知ることはなかった。彼の名を呼べたのは、『雲』の民のなかでも花神に愛された、限られた人間だけだったから。

 その、限られた人間のなかに、父親だけでなく、九重より幼い、朱華という名の少女がいた。
 彼女の父親も九重と同じ、花神に仕える神官だった。そして、彼女の母親はカイムの姫巫女と呼ばれた天神の娘だった。朱華は、生まれたときから茜桜の名を()っていたのだ。
 九重が逆さ斎を頼って椎斎の地へ逃げ込み、名を里桜と改め、試練に打ち勝ち闇鬼を身体に封じ、土地神と対等の逆さ斎となったことで、彼女はようやく今は亡き故郷を守護していた土地神の真名を識ることができたというのに。

 しかも朱華は自分が持つ『雲』のちからを制御できなかった。しょっちゅうちからを使いすぎて父親に叱られ座敷牢で罰を受けていたのを、九重は何度も見ている。無邪気で愛らしい、けれど後先何も考えていない愚かな娘だった。
 きっと茜桜の結界に綻びを生じさせるほどの術を発動したときも、自分が罰せられてそれでおわりだと思ったのだろう。けれどそうはいかなかった。彼女のせいで雲桜は滅びの道を辿った。神官たちは何者かが発動した禁術のせいで花神さまの結界が壊れて幽鬼が入り込んだんだと騒ぐだけ騒いで、蜘蛛の子を散らすように散って行った。

 九重の母親と幼い弟も死んでしまった。まだ立って歩くこともできなかった赤子の弟と、いつも弟を抱っこしていた母親は、真っ先に幽鬼に喰われたのだ。そして、神官だった父親は九重を護るため、自らの命を投げ出して結界を張った。おおきくはない、けれど幽鬼が退くまでけして解けることのなかった強力な、九重の生命を守った結界だった。