「――九重(ここのえ)?」


 ふたりの邂逅を見守っていた桜月夜の守人たちが固唾をのむ。
 朱華の菫色の瞳に射られた里桜もまた、声を失っていた。

「九重だよね? 瞳と髪の色が違うから、一瞬わからなかったけど……覚えてる?」

 ……彼女が、裏緋寒なのか? 竜頭さまの、花嫁として至高神が選んだ乙女なのか?

 混乱する里桜を前に、朱華は嬉々とした表情を保っている。

「あたし……あ」

 だが、その顔色が一変する。まるで思い出してはいけない過去に触れてしまったかのように。隣にいた夜澄が慌てて朱華を抱きかかえ、背中をさすっているが、顔色は変わらない。
 当然だ。
 彼女は雲桜の禁忌に触れた、集落の結界の留め金を外した、赦されざる罪人なのだから。
 その彼女が、里桜の家族を殺し、故郷を血で染め上げた幽鬼を招き入れた元凶だというのに。

 ――それでも神々は、彼女を選ぶのか! 自分が必死で護る竜糸の土地神の花嫁を、この罪深き少女に担わせるというのか?

「その名で呼ぶな」

 いつも以上に厳しい声で、里桜は蒼白な表情の朱華に告げる。

「貴女と慣れ合うつもりはない! 記憶を改竄されたときいたけど、身体はすべてを忘れていたわけではないのでしょう? 暢気に忘れたふりでもしているんじゃないかしら?」

 九重。それは里桜が逆さ斎になる前に呼ばれていた彼女の名前。
 そして目の前にいる朱華もまた、ふたつ名を持っていた。里桜が逆井里桜(りお)というふたつ名を与えられる、ずっとずっと前から。
 ふたつ名。それはカイムの民のなかでも特に強い加護を持つ者にしか許されない、神々が呼ぶ真実の名。
 朱華は、雲桜の集落で、幼いころからふたつ名を賜れた、唯一の少女だった。

「あ……」
「ようこそ朱華(あけはな)。記憶がないのならば、無理にでも思い出させてあげる。雲桜を裏切った、愚かな紅雲の娘よ」

 里桜は代理神だから、彼女のふたつ名をあえて呼ぶ。たとえ故郷を滅ぼす原因を生んだ忌わしい幼なじみでも、里桜にはいま、必要な裏緋寒だから。

「あたくしは逆井里桜。神皇帝に命ぜられたこの竜糸の代理神の半神として、女神術者の最上位である表緋寒として、フレ・ニソルの朱華を裏緋寒の乙女に認定する……ただし」

 里桜の心の奥底で、どす黒い何かが蠢く。隠れていた闇鬼が、獲物を見つけたかのように、里桜の外へ出たがっている。けれど、いまはまだ、彼女を殺せない。


「竜頭さまに認められなければ、あなたを生贄にしてあげる」


 その言葉が発せられた瞬間、窓の向こうで、雷鳴が轟いた。
 驚く朱華の隣で、拳を握りしめた夜澄の双眸が妖しく煌めき、周囲に閃光を放っていた――……