「……死にそこなったか。忌わしい蛇だ」

 桜吹雪の向こうで、一匹の蝙蝠が嘲るように鳴き声を発している。その報告を耳に、男はつまらなそうに応える。

「蛇がいるからには眠れる竜を無理に起こすこともない。標的を竜糸(たついと)から雲桜に変える」

 思わぬ発見だった。たいしてちからを持たない花神を土地神としている少数部族『雲』が暮らす山深くに位置する雲桜は男にとって捨て置くはずの場所だったのだから。まさかここで至高神の加護を持つ『天』に勝るちからを目の当たりにするとは……これは、放っておくわけにいかない。

「いまはこの、邪魔をした小娘がいる厄介な呪術を使う集落を落とすのが先だ」

 雲桜の土地神を殺めれば、その地は瘴気に満ち、またたく間に深い闇へ人間を飲み込んでいくだろう。その絶望に打ちひしがれた人間どもを食餌できるのだ、鬼たちの肴にちょうど良い。

「そのあいだに、計画を練り直せばいい。まだ時間はあるのだから……な」

 きぃきぃと、賛同するように蝙蝠が鳴く。気づけば少女に介抱された蛇は、姿を転じることなく澄み切った夜空に逃げるように消えていた。

「正体を悟られるのを避けたか。まあよい。あの蛇を殺すのはあとの楽しみとしておこう」

 だが、愚かな少女だ。土地神の制止もきかずに術を遂げるとは。これで花神も疲弊して、こちらの侵入に気づくのに遅れるだろう。
 男は苦笑しながら蝙蝠に命じる。


「いましかない。雲桜を、滅ぼせ」


   * * *


 息を吹き返し天空に姿を消した蛇を呆然と見送った少女は、暁降ちに起こる嵐の予兆など知る由もなかった。
そして、朝陽を拝む間もなく、故郷は滅ぶ。
 なぜなら、雲桜を守護していた土地神、花神が幽鬼によって殺されてしまったから。


   * * *


 土地神が施した魔除けの結界は解け、悪鬼が美しい桜の園を蹂躙する。桜の淡い芳香は喰い破られた人間の血肉の臭いに染め変えられ、白い桜もどす黒い瘴気に染まる。
 繰り広げられる悪夢に、疑心暗鬼になった『雲』の民は罵りの言葉を吐く。

「誰が禁術を使ったのだ……!」

 雲桜を守護する花神の加護をもつ『雲』の民は、集落の誰かが禁忌とされる術を使ったために花神のちからが弱体化し、そこを鬼に付け込まれたのだと悟る。
 だが、その原因をつくったのが幼い少女であることにはまだ誰も気づいていない。
 その少女も、自分が犯した罪の大きさに気づいていなかった。だって、治癒術は禁じられていなかったから……

「お父さん?」

 けれど、少女の父親は、気づいていたのかもしれない。神術に優れた自分の娘が、禁忌とされる甦生術を故意に発動して、花神の結界を緩めてしまったことに。

「なに……?」

 悲痛な叫び声が、集落中に響いている。そして、少女の顔に怯えが走る。幽鬼襲来を怒鳴る父の声。花神さまの結界が張られているから大丈夫だって……そう言っていたのに。


「なんで?」