夜澄が呼び戻した記憶が朱華を苦しめ、幽鬼に奪われる隙を与えてしまったのは否めない。だが、彼女は自分を犠牲にして穴に飛び込むことを拒み、幽鬼への餞別に左腕を切断したのだ。代償を望む冥界の神々を欺く選択をした朱華が、真実から逃げるようにこのまま現世(うつしよ)から姿を消してしまうなど、夜澄には信じられない。

 里桜と竜頭が姿を消したのを見送り、夜澄は眠りつづける朱華の耳元にそっと囁く。


「俺が、お前の片腕になってやる」


 ――だから、起きろ。

 神でありながら祈ることしかできない自分を疎ましく感じながらも、夜澄は朱華の右手をしっかり握りしめたまま、彼女の菫色の瞳がひかりを映すのを、じっと待つ。
 ひたすらに神謡を囀り、彼女の目覚めを乞いつづける。恋いつづけた彼女が、絶望に満ちた悪夢から抜け出せるよう。
 未晩のようになかったことにすることは、夜澄にはできない。けれど、苦しくてもともにその記憶を共有して、支え合うことならできるはずだ。
 硝子窓の向こうで、花盛りの菊桜が薄紅よりも明るい朱華色の花びらを散らせている。雲桜の真っ白で儚げな八重桜よりも華やかでありながら、どこか窮屈なさまを見せるその花は、表裏の緋寒桜と呼ばれた少女たちにどこか似ている。
 かつて朱華が白い蛇の本性で力尽きた自分を、諦めずに禁じられた術をつかって救った日も、純白の桜が舞い散るさまが美しかったのを思い出し、夜澄は僅かに微笑んだ。