朱華が自らの左腕を代償に幽鬼を地獄へ落としたことで、おおきく口を開いていた冥穴は一瞬で姿を消した。おびただしい量の失血に顔を真っ青にしていた朱華は、里桜に止血のための加護術を施してもらい、一命を取り留めたが、緊張の糸が切れたからか、あれから二日間眠りつづけたままだ。

「……で、至高神はなんておっしゃっていたのですか」
「約束の花残月の朔日は問題なく(・・・・)訪れた。彼女へ茜桜が与えたちからを総て返却いたそう」

 幽鬼を退けたことで、竜糸の危機は一時的に去った。里桜は烏羽色の髪に茄子紺色の瞳という『雲』の姿のまま、竜頭の傍にいる。黒檀色の髪に榛色の瞳を持つ竜神は面倒臭そうに応えると、室の向こうで寝台につきっきりの兄神に声をかける。真名を呼ぶと怒られるため、結局竜頭も彼のことを夜澄と呼ぶことで落ち着いている。

「夜澄、入るぞ」

 振り向くこともせず、夜澄はぶつぶつと呟きつづけている。

「強い気配は、彼女のなかに溢れている。茜桜のちからも還ってきている……」
「それは、我も感じる」
「――ならばなぜ、朱華(あけはな)は起きない?」

 神殿の離宮に準備されていた裏緋寒のための室で、夜澄は自分を責めるように昏々と眠りつづける朱華をじっと見つめていた。絹の衣に着替えさせられた彼女の素肌に刻まれた幽鬼の接吻の痕は、いまも色濃く残っている。未晩に襲われている間、彼女は何を想ったのだろう、戻ってきたばかりの記憶を宥めることで、気が狂いそうになったのを必死に堪えたのかもしれない。未晩に屈していたのなら、夜澄たちを待たずにすべてを投げていただろうから……考えるのも忌わしくなり、夜澄は首を激しく左右に振る。

「至高神に預けたままの状態で、ちからを暴発させたからじゃないの? それか、真実の記憶と向き合っているとか……」

 焦燥しきった表情で問い詰める夜澄に、里桜が応える横で竜頭もぼそりと呟く。

「幽鬼に殺されたお前を甦生させた彼女が、雲桜の滅びを招き神官の父に殺されそうになり逆に殺してしまったという重たい過去を、完全に受け止めるまでは、起きないかもな」
「……ああ」