祈る男と渇いた女

 それでもなお、渇いた女は、
(わたしには使命がある)
 と拘り続けたのでした。
 女の心を占めていたのは、不安と恐れでした。
 自分を愛せない渇いた女は、幼いころに受けた虐待が元で、自分の身も心も汚れきった存在としてしか思えず、ボランティアをすれば、心も魂も、肉体でさえも、清められるような錯覚に囚われていたのです。
 愛されて育てられなかった渇いた女は、愛することも愛されることもわからなかったので、愛さなければ愛されないという、強い思い込みに囚われていました。しかも渇いた女自身が、一番愛に飢えていることに、気づいていなかったのです。
(いったいこの不安や恐れはどこから来るのかしら)
 渇いた女は何かに追われる様にひた走りました。
 狂ったような自己の犠牲は病的な彼女の精神状態が作り出したものだったのです。
 当然そのしわ寄せは、周囲の仲間にいきました。彼らは渇いた女が自己犠牲して頑張れば頑張るほど自己犠牲を強いられる結果となったのです。
 ボランティアの仲間は渇いた女の使命感や高い理想を理解し、そこに惚れ込んで一緒に活動を続けたのですが、それも何年も続くと、身も心も磨り減り、後ろめたさを感じながらも、心が離れていくのでした。 
 渇いた女は、いつも自分を支えてくれる周囲の人達に、感謝することを忘れませんでした。しかし彼女は周囲の人達の好意に感謝しながらも、自分と同じことを、決し彼らにさせてはならなかったのです。もし彼女に自分を愛する心があったなら、仲間の幸せのことも考え、突き放すべきだったのです。ところが彼女は自分を愛せず、自己犠牲を当たり前のようにしていたので、仲間が無理をしていることに気づく感覚が欠如していたのでした。
 彼女を天使だの、愛の女神だのと、持ち上げていた周囲の仲間にも責任はありました。女は期待に応えようと、必要以上に無理をして、自己犠牲に拍車が掛かったからです。

もう一人の自分
 
 渇いた女には自分がありませんでした。幼い頃の暴力や虐待で、女は自分を守る為に、心とは相反する行為や思いを取らざるをえなかったのです。恐怖や辱めから一時的にでも逃れようと、自分の心を偽り、従順さを装ったり、性的に陵辱され、傷つけられた心や体の現実から目を背け、抑圧したりすることで、自分の中にもう一人の自分が出来上がってしまったのです。