泣いてる君に恋した世界で、



「槙田くん悪いね」

そう声をかけたのは咲陽の父親。

急に旦那さんから声を掛けられるとは思わず急いで席を立った俺に柔らかな笑みを向けて座るよう促されてしまった。


「あ、妻は今お手洗いに行ってるんだ」

腰を掛けながら待たせて悪いねと重ねて言われ、俺はいえ、としか言えなかった。

緊張はさっきの一瞬だけで今は目の前の人に感心していた。

容姿といい声質といい全てにおいて柔らかさを感じる。夫婦揃うとマイナスイオン豊富な森の中にいるようなそんな空気感がある。とても落ち着いたやさしい家庭に咲陽は生まれたんだと彼の動作一つひとつに思い馳せていた。


しばらくしてパタパタと駆けてくる咲陽の母親が俺の真正面の席に着く。

ふぅ、と一息吐いて俺を見つめる瞳は若干充血していた。


「待たせてごめんね。ぁ、何か飲む?」

「ミナコ、ここレストランじゃないから」

「あ、そうなの。雰囲気あるから」

「水ならあるから取ってこようか」

そう指さして水を取りに行く旦那さん。その後ろ姿を見送る奥さんがこちらに向けるとへらりと笑った。その顔はよく咲陽もしていたな。

「ごめんなさいね。こんな茶番見せちゃって」

「いえ。仲良いんだなと思いました。素敵です」

俺の両親もこんな感じだった。懐かしい。マイナスイオンは出ていないけれど。

てか今の茶番なんだと胸の内で笑ってしまった。そこら辺も咲陽引き継いでいたのかななんて思った。

「槙田くんにずっと会いたかったのよ。本当感謝しかないの。聞き飽きるほど言いたくてたまらないの」

ふわりと微笑む奥さんがありがとうと言う。

視界の端に人影が見えて伸びてきた手を辿るように視線を上げると片手にコップを持った旦那さん。今置いてくれたコップが俺のものと分かった時には慌てて頂戴しお礼を言った。

優しく頷く彼は彼女に目配せて困ったようにおかしそうに言った。


「本当だよ。もうかれこれ15年……か。ずっと君に会うまでずっとこんな調子なんだ。ま、僕も君には本当に感謝している一人でもあるけどね」


旦那さんも先程の奥さんと同じように深く頭を下げた。
そして隣の彼女もまた頭を下げる。

「お二人とも頭を上げてください。そこまですることないですよ俺に対して。俺だけが咲陽さんのそばに居たわけじゃないので」

俺だけじゃない。俺よりも1番傍にいたのは両親で、親友の椎名先輩だ。俺よりも遥かに彼女のことを知っている人たち。

それなのに俺しかいないとでもいうような口振りで言う。


「ううん。あなたなのよ。ずっとそばに居てくれたのは」

顔を上げてくれた彼女の瞳は潤んでいて、もう少ししたらこぼれ落ちてしまうんじゃないかってくらい水分が増していくように見えたのは気のせいじゃなかったみたいだ。

慌ててハンカチで目元を拭い、例の紙袋を取り出し、中身を取り出した。


左から順に、見覚えのあるスケッチブックが2冊。黒く光沢感ある筒。B5ノートが1冊。A4ノートが一冊。

思わず懐かしいと声に漏らした。

2人の顔は綻んで同調しながら「中見てもいいのよ」と奥さんが嬉しそうに言う。

伸びかけた手に一度自制をかけたのはすんなり鵜呑みしてもいいのだろうかと躊躇ったからで、それでも好奇心には適わないわけで。

迷わず、手に取ったのは緑のスケッチブック。

ドキドキしながら表紙を開ける。
2ページ目からは壮大な世界が広がっていた。

綺麗な色使いに圧倒される。

ペリペリと捲っては何度も同じ言葉を繰り返す。

極めつけは「咲陽の絵だ」と口ずさむ。

水彩画というものは今でも俺にはさっぱりなんだが、咲陽は苦手意識があるみたいでよく特訓中と言っていたことを思い出す。

でもこれを見て一体どこが特訓中なのだろう。

昔水彩画というものがどういうものなのか咲陽以外が描くものを検索したけど、どれも咲陽のような絵ばかりがずらりと掲載されていた。

どの絵も写真のようで、リアルすぎた。

川の煌めきとか、水面の透明度とか、風まで感じそうな画力は一体どこで得たのだろう。

きっと沢山描いてきたからできることだ。
咲陽もそう。

次に手をつけたのはオレンジ色のスケブ。

この中には俺がいる。そう思えることすら恥ずかしいけれど、咲陽に映る俺は一体どう映っているのか知りたくて心做しか胸を躍らせて捲っていった。