帰らなきゃ。
家に帰って、ごはんを食べて、お風呂に入って……日常を過ごさなきゃいけないのに。
もうその日常に母が戻ってこないのだろうことを想像すると、心がひどく孤独感に襲われた。
お母さんが、いなくなってしまうかもしれない。
いつも明るく、優しかったお母さんが。
……ううん、本当は少し予感はしていた。
病気が発覚した頃から、年月をかけ痩せていった体。
深いシワが増え、薬の副作用で髪も薄くなり年齢よりぐっと老け込んだ。
それでも最初は私が行くたび笑顔で出迎え、明るく笑って話しかけてくれた。
けれどここ一年、体力がなくなり起き上がることすらほぼなくなった。
そんなお母さんを見ながら、『春には』なんて未来のことを口にするのは、ただ願いたいから。
そしてそれにお母さんが頷かなかったのは、きっと察しているから。
自分の命の灯火が、少しずつ弱くなっていくのを。
そう脳裏に浮かんだ瞬間、地面に雫がぽたりと落ちた。
たったひと粒から堰を切ったように涙は溢れ出し、足からは力が抜け、私はその場に膝をつき座り込んだ。
やだよ。いやだ、そんなの信じたくない。認めたくない。
お母さん、いなくならないで。
ひとりにしないで。
こわい、苦しい、悔しい、さみしい。
誰か、助けてーー
「沙智ちゃん?」
その時だった。
名前を呼ぶ声にふと顔を上げると、そこには数メートル先からこちらを見る中村さんの姿があった。
モッズコートにリュックを背負った彼の様子から、仕事を終え帰ろうとしていたところなのだろう。
彼は驚いた様子で駆けつけると、私に視線を合わせるように膝をつきかがんだ。
「どうしたの、こんな時間にこんなところで……なにかあった?」
優しく問いかける彼に余計な気を遣われたくなくて、私は涙を隠すように下を向き首を横に振る。
「……なんでもないです。すみません、大丈夫です」
精いっぱいいつも通りを装うけれど、それでも声は震えてしまう。
すると中村さんはなにかを察したように、私の肩を掴み立ち上がらせ、腕を引くとそのまま花屋の方向へ向かった。



