彼女のいう一杯はもちろんコーヒーの事ではなく、酒のことだった。どこか知っている店があれば教えて欲しいと言われ、時々同僚と行くバーに連れて行った。いつも行く時間よりだいぶ早い上に普段男ばかりで来ているため、マスターにも珍しいですねえ、と含みのある視線を向けられた。いや違うんですよ、これはあくまでもスマホを拾ってもらったお礼でして、ナンパしたとかじゃないんです、本当に。心の中で言い訳を並べつつ、隣り合わせでカウンター席に腰掛ける。彼女は珍しそうにキョロキョロと視線を動かして、嬉しそうにこちらをみた。

「一度バーに来てみたかったんですよ。でも一人で行くには勇気がないし、友達とはあんまり静かなお店で飲むって感じでもなくて。聞いてみて良かったです」
「はじめてのバーがこんなおじさんとで良かったんですか?」
「おじさんなんですか?」
「ひなさんくらいの女の子からしたら、三十代後半なんて十分おじさんでしょう」
「お兄さんだと思いますよ?」
「そう、かなあ」

 ひな、と名乗った彼女は二十三歳だという。ひとまわり以上歳下の女の子の天真爛漫な笑顔は、三十七になる自分には少々眩しい。

 よく会社の連中が「若い女の子と付き合いたい」などと軽口をたたくけれど、実際に若い女の子の隣に座ってみれば、それはとても場違いに感じられて、寄る辺のない気持ちになる。もちろん今は恋愛がらみでこうなったわけではないので、気負う必要はないのだろうが。

「どうしてバーに来てみたいと?」
「なんか、大人って感じするじゃないですか。行きつけのバーがある女ってかっこよくないですか」
「なるほど、そういう」

 そういえば若いころ、自分も似たようなものに憧れたことがあったと思い出す。行きつけの店があることや、店の人と友人付き合いがあることを自慢気に話していた。店は気に入れば常連になることはしばしばあるし、話していくうちに店主と友人になることもままあるが、それが特別なことでも、自慢するようなことでもないことを現在の自分は知っている。あの頃ステータスに感じていた物事は、今考えれば不思議なことばかりだ。

「それじゃあ、何を頼みましょうね」
「……何を飲めばいいんですかね、バーに来てビールって非常識ですか?」