「じゃあ、はじめて」

ピアノの横に立つ講師は、私の公開レッスンでも担当した教授だった。
あの人の姿を目に入れるだけで、動悸が激しくなる。
二日前の悪夢が、びっくりするくらい簡単に鮮明に蘇る。

それでも、目を逸らさずに舞台上のピアノを見続けた。

二宮さんのレッスン曲は、私が大好きな作曲家、ショパンの『ノクターン第8番』
ピアノの詩人と言われるショパンの曲だけあって、美しく甘いメロディが続く曲。
やっぱり、ショパンの曲は特別だと思う。胸を締め付けキュンとさせる。

二宮さんは一度目を閉じて、そして鍵盤に手のひらをゆっくりと置いた。
柔らかな前髪からのぞくその目は、ただ鍵盤に向けられている。

左手の伴奏から始まる柔らかなピアノの音が、ホールに響く。

鍵盤を操る二宮さんは、時おり目を閉じ、そして時おり不意に視線をどこかへと外し、その甘く切ないメロディを示す音符を奏でていた。

それは、もう、完璧に――。

「はい。いいですね」

弾き終えた二宮さんへの、中市教授の第一声はそれだった。
その台詞だけを聞けば、どうってことないのかと思うかもしれない。

でも、”あの”中市教授だ。
私のほんのわずかな誇りさえも木っ端みじんに打ち砕いた、超厳しい教授だ。
あの教授が『いいですね』ということは、他の教授陣なら『大変すばらしい』と言っているところだろう。

「一つ言うとするならば。もう少し、音に意味がほしい。ピアニッシモはただ柔らかくすればいいというものではありません。フォルテッシモはただ強ければいいというものではない。特に、切なさの色がほしい」

切なさ。

一番その人の個性が出る感情かもしれない。
それぞれに思い浮かべる景色は違う。

それでも二宮さんへの演奏の指摘はその程度だった。

「でも、さすがですね。美しいショパンでした」

そんな言葉を残して、あっさりと公開レッスンは終わってしまった。

『教えてやるよ、今の俺の音がどんなものか』

二宮さんはそう言っていた。

でも、これが本当に二宮さんの音かな――。

そんな思いが心に浮かんだ。
それを正確に説明するのも難しい。それに、私なんかが意見できるような立場にないけど。

なんだかんだと言っても、二宮さんの演奏は凄かった。
私では足元にも及ばない。

一人、何か腑に落ちない感情を抱えながら教室へと戻った。
自分の席へと着くと、教室の扉の方がざわつき始めたのに気付く。

「なに? どうしたんだろ」

前の席に座っている名取さんも振り向いてそちらの方に視線をやっていた。