「じゃあ、どうぞ」
グランドピアノのそばに立つ、この日講師を担当する先生が私に視線を向けた。
中市恒彦――有名ピアニストにして聖ヶ丘音大の教授。50代にしてはとても若々しく、そして何よりそのオーラがハンパない。
そんな人にレッスンしてもらえるなど、この学校に入学したからこそだ。
「はい」
心臓が飛び出しそうなほどの緊張の中、鍵盤に手のひらを置く。
ピアノを専攻する人ならば絶対に避けては通れないバッハの教本『平均律』から一曲。そして、ショパンのエチュード、Op.10-5。「黒鍵」という名称で知られている。この曲は、音楽高校の生徒からすれば決して難易度は高くない。27曲あるショパンの練習曲の中では易しい方だ。
だからこそ、完璧に弾かなければならない。
2曲ともに私の好きな曲だ。
特にショパンは、軽快でころころと動く明るいメロディーが、可愛らしい。
その2曲を続けて弾き終えた。
うん。緊張はしたけれど、楽しく弾けた。
多分、練習した中では一番上手く弾けたと思う。猛練習した成果は、出せたのでは――。
大きく息を吐いた。
「まず――」
眉一つ動かすことなく、教授が口を開いた。
「バッハを弾くにも、ショパンを弾くにも、基本的なテクニックが明らかに欠如しています。それに、一曲一曲に求められる音楽性もない」
その、なんのためらいもない言葉に、私は瞬きをするのも忘れた。
「だいたい、テクニックが足りない場合、音楽性でカバーしたりするものです。その逆もしかり。でも、君の場合はそのどちらもない。ただ、好き勝手に弾いているだけ。だから、聴いていてもただ記号が耳をすり抜けて行く。何も感じない」
――何も感じない。
確かにテクニックはないかもしれない。
でも、これまで「聴いていて楽しい」と、そう言ってもらえることは多かった。
自分でも、弾いている時の躍動感だけは人に負けないと思っていたのに。
ここでは、それが通用しなかった。
それも、この一か月死ぬほど練習した。それでもダメだったという事実が私に重くのしかかる。
「まず、バッハですが。バッハを聴けば、その人が弾ける人かそうでないか分かります。バッハはバロック時代の作曲家だ。バロックを弾く上での、基本的注意事項は? 君はそれを頭に置いていますか? 基本中の基本だ」
それくらいのことは分かっているし、注意も受けてレッスンして来た。
でも、それが伝わっていないのなら、出来ていないということ。
次々と繰り出される講師からの矢のような言葉に、その後自分がどんな風にレッスンを受けどんな風に舞台を降りたのか、あんまり記憶がない。
あまりのショックに、心が止まってしまった。



