おもむろにその扉を開けると、二宮さんがベンチに寝ていた。
額の上で腕を交差しているので、その表情はよく分からない。


「二宮さん……?」


返事はない。寝ているのだろうかと思って、そっと扉を閉めた。


「――ダメだった」

「え……っ?」


そうかと思ったら突然声だけがして驚く。


「ダメって、何が――」

「――結局、俺自身には何の力もないってこと。レコード会社は、そんな危ない橋は渡らせられないと言う。そこはまだいい。商売だからな。でも、母親まで。息子の気持ちより、自分の欲を満たすことの方が大事らしい。まあ、昔からずっとそうだったけどな。ちやほやされている息子を見て、それが何より自分を満たしているんだから」

額に腕を置いたまま、他人ごとのように言った。

「金づるのアイドルを使えるところまで使う。仕方ないさ。これからも今までみたいに、本心隠して笑顔振りまいて貴公子でもなんでもやってやるよ。俺の人生は、ニセピアニストだ――」

「――二宮さんがそれでいいなら、いいんじゃないですか? そんなに簡単に諦められる程度のことならそれでいいと思います」

投げやりな言葉を聞いていたらたまらなくなって、感情が高ぶる。

「は……?」

寝たままでいた二宮さんが起き上がって私を見上げた。

「レコード会社が何を求めていようと、お母さんが何を言おうと。二宮さんのピアノは二宮さんしか弾けないのに。それを放棄するならそれでいいって言ってるんですよ」

二宮さんが楽しそうにピアノを弾いていた姿を思い出す。
本物の二宮奏の音を聴いた、あのステージの感動を思い出して、悔しくなる。

「なんだと……?」

「だって、そうじゃないですか。二宮さんはただ、自分以外のものに言い訳をしているだけ。誰かのせいにして、自分が本当にしたいことをしないで、この先後悔して。また誰かのせいにしてピアノを弾いていくんですか?」

「黙れ」

「いいえ、黙りませんよ。みんな自分の置かれた立場で苦しんでる。檜舞台を夢見て、それでも手に入らなくてもがいてるんですよ!」

香取さんの声が耳にこびりついている。
その舞台に上がるために、悲しい思いもする。

「二宮さんは既にその舞台を手に入れている。なのに、その舞台がまがいものだからと投げやりになって。
だったらその舞台を自分の手で本物にすればいいじゃないですか。他人の意見も周囲の目も、全部、二宮さん自身でひっくり返してよ。結果を出して、黙らせてよ。
よけいな噂は『ピアノの腕で黙らせろ』って、そう言ったのは二宮さんです!」

あの時私にくれた言葉たちは、きっと二宮さん自身にも向けられたものだったのだ。

「俺の置かれた状況なんて、何も知らないくせに、分かったようなことを言うな!」

二宮さんの叫びに、怯みそうになる。
でも、ここで引き下がるわけには行かなかった。

私は、あの音を信じているんだ。絶対に、世界に飛びに立つ音なんだ。

「これまで勝負の世界が怖くてずっと逃げて来たけど、私、コンクールに出ます。もう逃げませんよ。だって、本気で向き合うことの楽しさを教えてもらったから!」

そんなこと何も決めていなかったのに、勝手にこの口が言っていた。
でもその気持ちが私の本当の気持ちだと分かる。
勢いのままに吐き出した感情をどうすることも出来なくて、私は練習室を飛び出した。