「お母さん、本当は、春華は、伸び伸びと好きな時にピアノを弾くのがいいと思ってた。こういう学校に入ってしまったら、どうしても競争しなくちゃいけなくなるでしょう? 順位とか勝ちとか負けとか、そういう世界でピアノをするのは辛いんじゃないかって」

涙を拭き終えたお母さんが、口を開いた。
それはお母さんの口癖だった。

「――でも、春華はどうしてもここに来たかったんだよね。奏君と同じ学校に行きたかったんだよね。恋するパワーって、凄いよね」

さっきまで泣いていたお母さんが、突然ニヤニヤし出す。

「ちょ、ちょっとやめてよ。恋ってなに。恋じゃない」

「え? 違うの? 奏君と同じ学校に行きたかったんでしょ?」

いつものように勝手に話を紡ぎ出す。

「今日、カッコ良かったよねー。テレビで見るより大人っぽかった。ああ、でも、最近はあんまりテレビ出てなかったから、お母さんの中で、中学生で止まってただけかな」

勝手にペラペラと喋り続けている。

「本当に優しそうな雰囲気で爽やか青年だったわね。でも、母娘(おやこ)なのに春華とお母さんとでは好きなタイプが違うよね。奏君は、白王子か黒王子のどちらかと言ったら”白王子”よね。でも、お母さんは、優しそうな雰囲気の人よりクールなタイプが好きだから。お父さんみたいな――」

「ストップ、ストップ! いつものお母さんの妄想はいいからっ」

こういう話になると、お母さんはいつも勝手に盛り上がる。
本当に、変わってる。我が親ながら呆れる。

「恋なんて、そんな不純な動機じゃないの! 二宮さんの顔とか、どうでもいいし。私は、あの音に憧れてるの。何度言えば分るの。だいたい、実際に会ったこともない、話したこともない人に恋とか、そんなのあるわけない!」

「そんなにムキにならなくても」

「だって、お母さんが勝手なことばかり言うから!」

本当に腹が立つ。
同じピアノを弾く者として、純粋にあの音に憧れているのだ。

そんな浮ついた気持ちで二宮さんを見ているわけじゃない――!

「……まったく、二人は相変わらずだな」

私たちを見て、お父さんが微笑む。

「一緒にしないで!」

お父さんから見たら、私もお母さんも同じように見えるのか。
中くらいの身長なのも、少しクセ毛の髪も、大きくも小さくもない目も、色白なのも私たちは良く似ている。
だけど。似ているからって、同じ扱いにしないで欲しい。
私は、白王子とか黒王子とか、そんなおかしなことは考えない。

この苛立ちをおさえるべく、届いていたアイスティーを飲む。

「――とにかく、近くに目標となる存在がいるというのは何にしてもいいことだ。あくまで彼は、”目標となる存在”だよな?」

お父さんまで――。

その、眼鏡の奥の切れ長の目が、ふっと緩む。

「そうですっ!」

私にとって二宮奏は、憧れで、目指すべきもので、偉大なるピアニストで。
そしていつか、同じ志を持つ者として同じ場所に立ちたいと思っている――そんな存在なのだ。