「……ジーク? 貴方、ジーク・ライオット?」

「驚きました。お嬢様、僕の名前を覚えていてくれたんですね」

 驚きと喜びに頬を染める姿を前にイリーナはごくりと唾を呑む。覚えていたというか、知っていた。
 ジーク・ライオットは攻略対象の一人。精霊に憧れて学園に通う、誰にでも人当たりの良い好青年だ。貴族ではないジークは主人公にとっても親しみやすく、等身大の同級生として交流を重ねていた。

(確かにジークの父は貴族の屋敷で庭師をしていたと語られていたけれど。だからってなんでうち!?)

 この世界にどれだけ貴族の屋敷があると思う。何故よりにもよって悪役令嬢の実家か。

「まさかお嬢様に名前を呼んでもらえるなんて、僕とても嬉しかったです。僕の方がプレゼントをもらってしまいましたね。後で父さんにも自慢します!」

 たった一言名前を呼んだだけなのに、ジークはとても嬉しそうだ。まさかイリーナが庭師の息子の名前を記憶しているとは思わなかったのだろう。ゲームでのイリーナはプライドが高く、貴族とそうでない人への態度の差は歴然としていた。

(ゲームでは特に接点はなかったと思うけど……はっ!)

 イリーナはジークのエンディングを思い出す。
 ジークルートで主人公は永遠に目覚めることのない呪いを受ける。もちろん呪いの元凶はイリーナで、本人もまた夢の世界を彷徨い続けることになるのだが。
 けれど主人公はジークと精霊の力を借りて目を醒ます。目覚めた先で微笑む最愛の人は最後に見た姿よりも少し大人びていて、主人公はジークの愛に微笑みをもって応えるのだ。
 そしてバッドエンド。呪いを破ることは叶わず、眠り続ける主人公に花を手向けるジークの姿が描かれていた。主人公を見下ろす眼差しに込められた想いとは? 最後に見せた微笑みの正体とは?
 目覚めることのない主人公をそれでも愛し続けるという覚悟か。あるいはこれで君は僕だけのものになったという歓喜か――というのは未だにファンたちの間でも論争が繰り広げられている。

(この花はあの時主人公に手向けていた花と同じ! つまり、お前も主人公のように永遠の眠りにつかせてやろうかということ!?)

 ジークは日常の象徴のような攻略対象だった。だからこそ異常を感じさせるシナリオにファンは動揺した。彼が純粋な人だったからこそ、狂気を感じさせたのだ。
 とたんに目の前で無害そうな笑みを浮かべるジークの表情が読めなくなった。

「わ、私は、永遠の眠りになんてつかないからー!」

「お嬢様!?」

 縁起でもない。イリーナはまたしてもその場から走り去っていた。