その夜、部屋に閉じこもるイリーナの元を訪ねたのは両親ではなく侍女のタバサだった。両親は親戚たちの相手に忙しいのだろう。元々イリーナへの関心は薄く、侍女に任せておけばいいと思っているはずだ。

「お嬢様、ご気分はいかがですか?」

 アレンとの予想外の邂逅もあって良くはないけれど、侍女相手に心配をかけてもいけない。イリーナは弱々しくも微笑んだ。
 タバサはイリーナが生まれた時から侯爵邸で働いている。何よりゲームに登場しないということがイリーナの心を開かせた。

「起き上がれるようでしたら食事をお持ち致しましょうか?」

 部屋を暗くして布団にくるまっていたイリーナは、言われて初めて空腹を思い出した。有り難い提案に頷くと、タバサはカートに乗せて夕食を運んできてくれる。用意されたのは消化に良さそうな品ばかりで、料理人たちがイリーナのために用意してくれたことが伝わった。

「ねえタバサ。私、明日からずっと部屋で食事をしたいの」

「それは、体調が回復されるまでということですか?」

「ううん。ずっと、大きくなってもずっとよ」

「お嬢様?」

「私ね、この世界がとても怖ろしい。外に出るのが怖いの」

 生まれ変わったのが主人公であれば約束された幸せを前に喜ぶことも出来た。けれど悪役令嬢の抱く感想はこれに尽きる。この世界はイリーナに優しくはない。部屋の外にはあらゆる所に危険が待ち構えている。今日が良い例で、その恐怖は部屋から出ることを躊躇わせた。

(外に出たらあの人たちがいる。悪役にされてしまう。私はここでじっとしているから、だから私のことは放っておいて!)

 部屋にこもっていればアレンと会うことはない。アレンに会わなければ誰かに嫉妬することもない。目をつけられることも、不用意にゲームの関係者と会って運命を歪めることもないだろう。

「だから外には出たくない」

「ですが……」

「お願いタバサ!」

 必死に頼み込むが、タバサは困惑したままだ。

「それは、わたくしの一存ではお答え出来かねます。もちろんわたくしはお嬢様が望む限りこの部屋に食事をお届け致しますが、旦那様たちが心配なさるのではありませんか?」

「あの人たちは大丈夫。私への関心は薄いもの。優秀なオニキス兄様がいるのだから、私なんていなくても同じよ」

「そのようなことはありません! それに、お嬢様は王子殿下の婚約者ではありませんか」

「私はただの候補よ。ただの候補が一人消えたって誰も気にしない。むしろ他の令嬢たちからしたら侯爵家の娘が消えて清々すると思うわ」

「お嬢様!」

 侯爵家の令嬢なんて候補の中でも家柄から見れば最有力だ。咎めるように名前を呼ばれてもイリーナはけろりとしていた。