「保健の内山《うちやま》先生が結婚し、産休を取ることになりました」
 朝学活でそう告げられた。
 産休、てことは赤ちゃんが出来たのか。
 内山鳴子《なるこ》先生。
 去年、体調を崩したきりこの学校にやって来ることはなかった。
 どこから流れてきたのか、その間ずっと支えてくれていた彼氏とついに結婚を決めたんだとか。
 てか彼氏いたのかよ、と思う。
 内山先生を斉藤と俺は鳴先生と呼んでいた。
 俺たちは鳴先生にはすごく助けられた。
 小3の夏、親にトランスジェンダーをカミングアウトした、あの次の日。
 母さんは学校に電話したらしい。俺はおかしいって。職員室にはあっという間に広まった。
そんな教師の中でただ一人、鳴先生だけが俺らの味方になってくれた。



「伊宮“くん”、斉藤さん」
 斉藤がいじめられていたところを俺が奴らに仕返しをして、教室に帰ろうとしていたとき。たまたま鳴先生にあった。
 カミングアウトの次の日だった。
「あら!」
 若い女の保健医だった。
 これが鳴先生との初めての会話でもあった。
「どうしたのその顔!」
 振り向いた途端、そう言われた。
「最近ずっと痣だらけね。ちょっとおいで」
 腕を掴まれ、半強制的に保健室へ連行された。
 掴まれた、とは言っても当時小2の俺たちが簡単に振り払えるくらいの力だった。
「こんくれぇ平気っすよ」
 傷に染み込むエタノールを睨みながら言った。
「うーん、私も一応だからね。児童の手当くらいはしないと。」
 頬にでっかい湿布を貼りながら言う。
「ほら、斉藤さんも」
 軽い擦り傷が数ヵ所。
 そんなのに絆創膏使わなくていいだろ、と思っていた。
「センセー、帰っていい?俺トイレ行きたいんだけど」
「あら、じゃあそこの職員用トイレ使っていいよ。」
 ないしょだからね、と付け足した。
「あ、や、大丈夫っす。三階のトイレ使うんで」
 年齢男女車椅子関係なく入れるのは三階の「みんなのトイレ」だけだった。
 戸籍は女だから女子トイレを使わなければいけないけど、俺にとってそれは拷問に近かった。だからいつもみんなのトイレを使用している。
 斉藤も、大抵はみんなのトイレを使っていた。
「大丈夫よ、先生、誰か来ないか見張っとくから。男性用トイレ、入りな」
 女子トイレに入りたくないから、なんて言ってないのにまるでわかっているように言った。
「え、でも、俺、」
「今誰もいないから早く行きな」と言われ小学生になって初めて男子トイレで用を済ませた。
 俺がトイレから出ると先生と斉藤が立っていた。
「何、おどおどしてんの。自信持ちな!何も悪いことないんだから」
 ぽんと肩に手を置いて言った。
 俺にとって男子トイレに入ることは夢でしかなかった。大人になったら、当たり前のように使いたいと思っていた。
 その夢を、鳴先生は叶えてくれた。十何年も早く。
 さらに鳴先生は俺を「トランスジェンダーの男の子」ではなく「普通の男の子」として扱ってくれた。
 俺はそれに本当に救われた。
 それから、トイレに行きたくなった時以外も鳴先生と過ごした。
 保健室でどうでもいい話をずっと駄弁っていた。
 斉藤も休み時間になるたびに鳴先生に会いに来た。俺が鳴先生と話していると斉藤は変な顔で俺を見てきた。何か、言いたそうで切なげな目だった。
 でも俺はその顔が好きだった。



「伊宮くん」
 休み時間になると斉藤が速攻教室にやって来た。
「明日、先生来るんだってね。先生、結婚したんだってね」
 もう産休に入るので明日で最後らしい。
 まただ。
 またあの、変な顔をしていた。その変な顔の正体を、俺だけが知っている。
「おう」
 斉藤は強い。俺よりも、遥かに。
 ぽんと斉藤の頭に手を置いて俺はトイレに向かった。
 斉藤は気付いていない、きっと。俺に秘密がばれていることを。
 もしかしたら、俺だから知られたくないのかもしれない。だから俺は斉藤に何も言わないし、出来ない。

 斉藤はいつもより早く登校していた。
 俺達は保健室へ向かった。
「あら!」
 入ると椅子に座っていた鳴先生はすぐに立ち上がった。
「鳴先生、おめでとうございます」
「やだ、ありがとう〜」
 先生は俺をぎゅっと抱きしめた。
 以前よりお腹が大きくなっている。
「先生、」
 斉藤が呼びかける。
「これ…今までありがとうごさいました」
 斉藤は手先が器用だ。
 昨日「本物あげたかったけどね」と言いながらお花と鶴の折り紙を作っていた。
「あら!わざわざありがとう。」
 斉藤のこともぎゅっと抱いた。
 心が痛いよ。
 斉藤は変な顔で泣きそうになっていた。涙が零れないように必死に唇を噛み締めている。
 保健室から出る時、斉藤は言った。
「先生」
 ん?と先生は首を傾げる。
「末長くお幸せに」
 もう変な顔はしてなかった。
 にっこり笑っていた。
 先生は一瞬戸惑った顔になるも、「ありがとう」と言い手を振った。
 斉藤はすごいよ。
 強いよ。
 先生に心残りをさせないように、そうやって笑う。
 斉藤は一度も零さなかった。
 俺にですら、言わなかった。
「ちょっと、僕トイレ」
 教室に着きそうになると斉藤がそう言ってトイレの方に行こうとした。
「斉藤」
 斉藤の後ろから抱きしめた。
 心臓がばくばく言っている。
 これは俺の鼓動なのか、あるいは斉藤のかもしれない。
 何してんだ俺は。
「何、してんの…」
 震える声で斉藤が言う。
「…ありがとう」
 俺が腕を解くとそう言ってトイレへ駆けて行った。
 床を見ると透明なものが一粒落ちていた。
 トイレで泣いているんだろう。
「どしたん」
 しばらく突っ立ってると後ろから金城に声をかけられた。
 肩を掴まれて振り返る。
「チャイム鳴…わ、おまっ顔真っ赤じゃん!どしたの」
「う、うるせえ」
「耳まで真っ赤じゃねぇか。かわいいぞ」
「黙れーばかーっ」
 斉藤がトイレから出て来たので金城の言葉を遮りながら教室へ押し込んだ。
「何すんだばかやろー」
 金城の方が俺より十センチくらい大きいし重いし強い。
 じゃれあいしていてもすぐに負ける。
「よっわ」
「うっせーごりら!」
「ようバカ猿」
「こっ、このやろっ」
 ていっ、と頭にチョップしてやった。
 全然効いてないらしい。
「お前、一応体は女なんだから、もっと男に対して危機感持てよ」
 そうへらへら言って席に戻って行った。
 金城の、そういうところが嫌いだった。なんでもかんでも無遠慮無配慮にへらへらしながら言ってしまうところが。
 ちょうど先生が入ってきて道徳の授業が始まった。
 最近やけに道徳が多くてウンザリする。もうほぼ自分の意思や考えをもつ小六が道徳をやって改心できると思っているのだろうか?
 一時間目で眠いのか、先生の話をまともに聞いているやつはあんまりいない。
「今日は『いのちを考える』道徳です。はい、今配っているプリントにはまだ名前を書くだけでいいです」
 そう言ってプリントをせっせと配る担任。配り終わり黒板に題名と頁を書く後ろ姿。
 隣の女を見ると、付箋みたいな紙に何かを書いている。
「教科書開いてー」
 そう言えば、最近女子の間でお手紙交換が流行っているらしい。わざわざちっこい紙に書いて、しかも授業中にやって、何が楽しいんだか。俺にはチリほども理解できない。
「おい」
 紙を取り上げた。
 ちなみに、好きなコをいじめちゃう男子とかそんなのじゃないから。ただウザいだけ。
 女はビクっと震えて俺を睨んだ。
「ちょっと!返してよッ」
「教科書」
「は?」
「授業中なんだけど」
 人のこと言えないじゃん。自分だって授業に関係ないことしてんじゃねえかよ。
 これだから女はヤだぜ。
 女は顔を顰めて教科書をめくった。
「はいじゃあ机を班にしてー!話し合いを始めて下さい」
 先生の言葉にだるそうに机を引きずる。
 生徒たちが口々に言う。
「ねぇ、何すんの?」
「黒板見なよ」
「これさ、班で話し合う必要ある?」
「無いね」
 ①食べ物となる牛や豚の「命」と人間の「命」は同じか違うか。
と書かれていた。
「同じでしょ」
「同じだよね」
「え、違うでしょ」
「……」
 俺は黙っていた。
「早く言えよ」
 班の女子が言う。
「同じなんじゃない」
 ーー一般的には。
 大体のやつらがうわっつらで「同じ」と答える。その中で本当に「同じ」だと思っているのはほんの一つまみで。
 そもそも「命は大切に」とか「命の重さに変わりはない」とか言ってるけど、あんたら肉・野菜・果物・魚食べて無いのって話よ。
 でもほんなこと言うと、食べないと生きていけないでしょとか、しょうがないだろと言い返してくるだろ。
 つまり結局は「違う」ってことだ。
 でも今の世の中、正しいことを突きつければ叩かれる。そんなもんさ。だから合わせとくのが一番いい。俺にも、世の中にも。
 「はいじゃあ同じにした人ー」
 ぱらぱらと手が挙がる。
 ほとんどが「同じ」らしい。
「結構いるな。じゃあ「違う」の人ー」
 手が挙がったのは三人。
 先生はチョークで
・同じ 26
・違う 3
と書いた。
「おい、あとの三人はどこ行ったんだー?」
 クラスは笑いに包まれる。
 その三人のうちの一人が俺だと知らずに。
 少数派に聞こうと「違う人の意見はー?」とだるそうに先生が言う。
 こういうとき、手を挙げるのは二班に一人くらいの割合でいる、リーダーシップ性のあるやつだ。
「やっぱり、食べるものの命なので」
「えーないわー」
「ひど」
 批判が聞こえる。
 すると手を挙げるおちょうしものが出た。
「じゃあもし牛と人間が逆だったらどうなんの?」
 そんなの訊かなくても分かるだろ、猿。猿には脳みその面積が一㎤しかないのかな?
「そのときは……」
 言葉に詰まる。
「しょうがないんじゃない?」
 自信がないのか、小さな声で言った。
 何だよしょうがないって、と湧き上がる批判。
「うん、うん。じゃあページめくってー」
 教師の曖昧な返事に二人は納得のいかなそうに座った。
 教科書を音読させられた後、また班活動することに。
 ②なぜ人を殺してはいけないのか。自分たちなりに考えよう!
と書いてあった。
 分からない。そんなの。
 むしろこっちが教えてほしい。 
 さっきの猿の意見を交えて考えると、人が牛だったら殺していいことになってしまう。
「法律だからじゃん?」
「それなー」
 もし法律がなかったら、みんなは人を殺すのだろうか?
「もし人を殺していいことになっていたら自分も殺されていいことになって困る人がいるかもしれないから」
 俺がボソリと言うと班員は歓声を上げた。
「なんかスゴ」
「確かに」
 結局俺の個人的な意見が班の意見として採用されてしまった。
 班ごとに黒板に意見を書いていく。
・何のためにもならないから
・法律で定められているから
・一つの命を奪ってしまったら比べ物にならないくらいの人が悲しむから
・色々なひとに迷惑をかけるから
・常識だから
 人を殺すことに意味がない訳じゃないだろうが。理由があって殺すんだろ。恨んでいたとか、衝動的にとか、色々あんだろうが。
 じゃあ人を殺すことが常識だったらどうなるだろう?
 どうでもいい。意見は人それぞれだ。

 下校時間。
 みんなのトイレで用を足し終わったところに金城が入ってきた。
「ゆーうーなー」
「んだよ。お前まじカマチョ」
「お前じゃなくて、東《あずま》でしょ?」
「なんだよ急に」
「夕凪……チャン?」
「きも。まずトイレにまでストーカーすんのまじ勘弁」
 正直鬱陶しい。
 きもい。
「夕凪」
「だからなんだよ」
 キレぎみに返す。
「って呼んでいい?」
 は?
「なんで?ユウじゃだめなの?」
「…いいだろ別にこんくらい」
「意味わかんね」
「東って呼べよ」
「はっ?別にいいけど」
 するとにこにこしながら帰っていった。
 なんなのあいつ。
 手を洗い、ズボンで拭きながら階段を駆け降りた。
 下駄箱には金城と金城の友達らしき人が3人いた。
 俺は階段で息を潜める。
「なかなかやるじゃーん」
「何かキレてたな伊宮」
「トイレまで着いてきたからだろw」
 何で俺が!
「これでいいんだろ」
 ため息混じりに金…東が言う。
 どういう事だ?
「ああうん。まじオモロいわ。」
「罰ゲーム最高だわー」
「本当なら告白でも良かったんだぜ」
 告白!?罰ゲーム?
 ああ、そうか。
 何かのゲームで負けたから罰ゲームとして俺にやってきたのか。
「やめろよ」
「ははっお前は告白になると絶対拒否るよな」
「本命だもんな」
「さっさと告ればいーのに」
 えっ。
 東……が俺を?
 うそだ。そんな、こと。
 東は俺を男子みたいに接してくれていたのに。あいつの中ではやっぱり俺は…女だったの?
 何で、何で否定しないんだよ!
 「お前は男で良いんだよ」って「かっこいいよ」って言ったのは誰だよ!
「おい!!」
 気づくと東達の前に飛び出していた。
 東の胸ぐらを掴む。
「おほっおお?!シュラバシュラバ!」
 一人が騒ぎ立てるので上段回し蹴りをぶちかます。
「イデっ」
「おい!うそだろ!冗談だろ!」
「…」
「何で黙ってんだよ!俺を騙したのかよ!こいつらの遊びにしたのかよ!」
 こっちの気も知らずにふざけんな!
「なんとか言えよ!!!」
 俺は怒鳴り散らした。
 俯くと東が俺の手首を掴んだ。
「これが嘘だと思うかよ」
 ヒューヒューと周りが囃し立てるのを聞いてめちゃくちゃに殴った。
 校門を抜けると走った。
「わぁぁぁぁぁあ!!」
 どうやって帰ったのか覚えていない。気づいたら辺りは真っ暗になっていて俺は家の前にいた。
 お母さんに散々怒鳴られた。
 何してたんだ、誘拐されたらどうするんだ、お前はどれだけ人に迷惑をかけるんだ、心配したんだ、警察沙汰になったらどうするんだ。
「学校から電話が来た。お前、また殴ったのか」
 帰ってきたお父さんにはバシバシ叩かれてきょうだいからは冷たい目で見られた。
 少し説教が落ち着いてお父さんはご飯を食べ始めた。自室に戻るときょうだい達が一斉に入ってきた。
「お前のせいでまたママが怒ってる」
「帰って来なくてよかったのに」
「死んだのかと思った」
「お母さんたちの機嫌取るのどれだけ大変だか分かってるの?」
 兄、弟、妹に散々罵詈雑言を浴びせられ夕飯は与えてくれなかった。
 最終的には
「お前さえいなければ」
家族も平和だったのに。
「生まれてこなければ良かったのに」
とまで言われた。
 その言葉何回聞いただろう。
 その顔は何回見ただろう。
 今度はまた親にリビングに引きずり出される。
「どうして普通に出来ないんだ!この出来損ない!」
「お願いだからせめて普通にしてくれよ。」
 根っからの劣等生は曲げようも無いさ。
「そんな子に育てた覚えはない!」
「お前は俺の子供じゃない!」
 どうしてそういう結論に至るのかな。
 そもそも暴力で教育していた父さんにも責任あるんじゃない?
「私はどこで間違えたの…」
 机に向かって椅子に座っていたお母さんは髪を掻き乱した。
「私が悪いのよね。全部私が!」
 だからなんでそうなるんだよ。
「お前のせいで母さんがこうなるだろ!」
 あ、俺のせいなんですか。
 お母さんも相当イカれてるけど。
「なんだその顔は!親に向かう態度か?!」
 バチンと頬を打たれる。
「また学校に謝らなきゃいけない」
 お母さんがぼそりと言った。
「あんたなんか生みたくなかった」
 世界が白く、色がなくなったように見えた。
 水の中にいるみたいに息が吸えない。猛烈な吐き気。頭痛。

 夢を見た。
 幸せな夢だ。
 そこにはありふれた家族愛というものがあった。
 俺は子供を膝の上で抱いていた。
「ぱぱぁわんわん!」
 テレビを指差して子供が言った。
「わんわんだね。かわいいね」
 優しい声でそう言った。
 声は低く、喉の奥で響いていた。唾を飲み込むと喉の出っ張りが感じられた。
 がっしりとした大きな手で子の頭を撫でる。
 どこだ?ここ。
 俺は……大人?
「夕瑠《よる》ね、わんわんしゅき」
 指に光る銀色を見つめて言った。
「……よる?」
 子供はぽかんとして俺を見上げた。
「よる」?
「よる」って、こいつの名前?
 それとも夜?
 夜って、なんだ?今は朝だ。
「『よる』ってーー」
グゥゥ
 お腹が盛大に鳴った。
 言い損ねた。
「あら、パパったら。もうすぐ出来ますよ」
 キッチンには、微笑む小柄な女の人がいた。胸あたりまである髪はさらさらで大きなお腹にはラフなワンピース、その上にエプロンをしている。
「あはは、ありがとう」
 何度も夢に見た光景だった。
 叶うことのない夢。
『め……』
 微かに声が聞こえる。
 なんだ?
 現実から聞こえてくる。
『……は……はぁ……はぁ』
 荒い息。
『ごめん、ね……私……死ぬ……あんたを殺』
 お母さん!

 朝になっていた。
 俺は昨日のまま床で寝ていて、俺の上に包丁を持ったお母さんがまたがっていた。
 俺はお母さんを蔑んだ目で見つめた。それでも抵抗しなかった。
 別に死んでもいいと思ったから。
「何してんだよ」
 呆れながら言った。
 お母さんは涙をぼろぼろ流しながら包丁を必死に掴んでいる。
 手が震えているのが分かる。
「早く殺せよ」
 俺は分かってる。お母さんは俺を殺せない。そんなことをするような人じゃないって、出来るような人じゃないって知ってる。
 するとお母さんは包丁を床に落とし、泣き崩れた。
「ごめんね。ごめんね。」
何度もそう言っていた。
お母さんは悪くないよ。
俺が悪いんだ。全部。俺が普通の子に生まれなくて普通じゃないから。
俺は何事もなかったように立ち上がり、部屋に戻った。
時計を見るとまだ朝の5時過ぎだった。どうりで誰も起きて来ないわけだった。