「やめてよ」
 啜り泣く子の小さな声が聞こえる。
「なんでこんなことするの」
 中休み。
 図書室に行こうとすると、滅多に使われないその「みんなのトイレ」から声が聞こえてくる。
 身体と身体がぶつかり合う音。
 その物音の後に聞こえてくるのは決まって罵詈雑言。
「何してんの」
 トイレにいたのは、四人の男子とそいつらに囲まれて疼くまっている子で5人だった。
 よくある、イジメだ。
「お前に関係ないだろ。早く出てけよ」
「ほら、オカマ。仲間が迎えに来てくれたぜ」
 イジメられている子の髪を引っ張って、立ち上がらせた。
 ドン
「ああっ」
 その子のお腹を思い切り殴りつけた。
「……うえッ」
 苦しそうにえずいている。
 酷い。
 こんなに分かりやすいイジメなのに、先生たちは見て見ぬ振りだ。
 理由は簡単、嫌われているからだ。俺とその子が、先生に。
 だから、自分を守るためには自分が強くなくちゃいけなかった。
 でもこいつは力が弱い。だから俺が守ってやらなきゃいけない。
 小三から意地悪をされ、小4からは靴に画鋲などのイジメ、それから数人の男子からの暴力的なイジメが課せられた。
 俺の場合、小一から興味を持って空手と柔道をやっているため、幸いながら強かった。だから、やられたらやり返した。倍返し。
 だから小五、小六の今は特に殴られたりしていない。
「障がい者。障がい者は障がい児学校に行けよ!」
「障がい者!社会の障害物」
「変態きもー」
 この四人とも俺をイジメていたやつらだ。
 平然と笑っている。
「そんなこと言っていいと思ってんの?」
 ちっ、と舌打ちされた。
 馬鹿じゃん?愚か者め。俺より弱いくせに。
 戦いは30秒ほどで終わった。
 一発顔殴られたけど、余裕の圧勝。ぶん殴ってぶん投げて、終わり。
「おい」
 ぺたんと、女みたいに床にへたりこんでいる。しょうがなく手を差し出す。
「立てよ。斉藤」
 斉藤は顔を上げた。酷い顔。鼻血が出ていて目から、鼻からも水。口端は切れているし、頬は青く腫れていて痛々しい。
 本当はかわいい顔しているのに。
 斉藤は俺の手を掴んで、よろよろと立ち上がった。
 小さい。
 とても小六には見えない。
 小柄な俺でも昨日測って142センチ。それより小さい。
「ありがとう」
 無理に笑顔をつくって俺に向けたその表情は、虚しいくらいに美しかった。
「いいから、鼻。拭けよな。」
 鼻血を拭くように促した。が、ティッシュを持ってないらしい。
「あげる」
 たまたま2つ持ってたから、一つをあげた。
 ありがと、と受け取る。
 突然、斉藤の小さな手が俺の頬に触れた。
 さっき殴られたところだ。少しひりひりする。
「ごめんね。僕、弱くて」
「お互い様だろ」
 笑って言った。
 斉藤も微笑む。
 まだ休み時間は残っている。
 気まずくて無言で向き合ったままになる。
 斉藤は長袖の青いトレーナーに本来は膝上のはずのハーフパンツ、と、シンプルな格好をしている。その半ズボンからぎりぎり出ている膝小僧には血が滲んでいる。
「よく飽きないよな」
 うん、と頭を上下に振る。
 そうだ。前、俺がイジメられていた時、同じことをあいつらに言った。返って来たのは「これほど楽しいことなんかないよ」という可笑しそうな声と拳骨だった。
 サイコだな、と改めて思う。
 ふぅ、と息を吐いて言った。
「俺、二中に行くんだ」
「えっ。三中じゃないの」
「あいつらと同じとこ行きたくないからさ」
「でも、なかなか遠いじゃん」
 三中なら、家から20分で着く。
 二中は40分以上かかる。
「それでも、やり直したいんだ。友達、欲しいし」
 そう言うと、悲しそうに俯いた。
 何で斉藤が、と思う。
「まあいいじゃん。あと、一年近くあるんだし」
「そうだね、」
「なんなら斉藤、おまえも来いよ。二中。」
「うん」
 嬉しそうに答えた。
 別に仲が良いわけじゃなかった。
 ただお互い友達が極僅かしかいなくて、イジメられていて、先生達に嫌われているという共通点がなんとなく引き合わせただけだ。
 気まぐれで話をしたり、しなかったり。
 あいつは色々あるワケアリ小学生だ。
 まあ、ちょっとだけ、斉藤はかわいいとは思う。
 そこらの女子の何百倍か、ぐらい。
 斉藤瑠奈《さいとうるな》。
 中性的で整った顔つき、女子にしては結構日焼けぎみ。
 真っ黒でサラサラな髪はベリーショート。
 身体は薄っぺらく筋肉もない。
 声はとても高く、小さい。
 案外メンタルは強いらしく、殴られても泣くところはあまり見ない。
 クラスは俺の隣の3組。
 一組の加藤と尾山と川岸と、三組の赤井にイジメられている。
 ーーそれしか知らない。
 それくらいの関係なのだ、俺達は。
 『友達』と呼んでもいいのかすら、わからない。
 でも俺は、こいつのことを友達だと思っている。
「お前…またやったのか」
 俺達の間に割り込んできたのは、金城《かねしろ》。その俺の『極僅か』な友達の一人だ。
 殴られた頬を覗きこんでくる。
 最近、こいつはやたらと俺に絡んでくるんだ。
「うっせ」
 乱暴に金城の胸に手を当てて押し戻した。
 身長高いし、モテるくせに誰とも付き合わないし、なんか、むかつくんだよな。
 それにこっちがどんな気持ちで、綾奈を…
「うざいお前。しつけえ」
 階段を手すりを滑って下って行った。
 こういうとき、斉藤は何も言わずに俺についてくる。
 ちょうどよくチャイムが鳴った。
 ばいばい、で別れる。
 斉藤は声が小さい。チャイムでかき消されないように必死で声を出す姿は、萌える、というか、可愛い。
「先生来るよ。ユウ」
 成瀬綾奈《なるせあやな》。
 斉藤とはまた違った、可愛さ。
 クラスの女子の中では一位か二位を争う、静かな女の子。でも実はずけずけとものを言うところもある。いわゆる世に聞く噂のツンデレというやつだ。
 栗色の目、長いまつ毛。発言控えめな口。顎のラインからスムーズな首筋。
 誰もが振り返るような美人だ。
 肌は白く、すべすべで。
 身長は俺より少し高い。
 細いくせに出るところは出ている。
 いつも降ろしている黒に近い茶色の髪。前は腰まであったけど、あることがきっかけで胸あたりまで切った。
 今日の服装は薄いピンクのパーカーに短パン。
 普段はスカートの日が多い。
「地味」
「ださい」
 そう言うやつもいるけど。
 間違いなく、俺の初恋の人だった。



 俺と綾奈は家が近くて、小さい頃からの幼なじみだ。
 人見知りの綾奈は幼稚園でお母さんと離れるといつも泣いてしまった。だから俺がいつもそばにいた。幸い、クラスが離れることは無かった。
 年少のとき綾奈と約束したことがある。
「おれがずっとアヤのこと、まもるからな」
「うんっ」
「大人になったら結婚しようよ」
「ゆびきりげんまんーうそついたらはりせんはさぼんのーます!ゆびきった!」
「約束だぞ」
「でもさあ、」

 ゆうな、女の子でしょ。女の子は女の子と結婚できないってママがゆってたよ。

 自分は男の子。
 ずっとそう思ってた。
 でも、本当は違うらしい。
 俺は間違って、女の身体で生まれてしまった。
 トランスジェンダー。
 性同一性障がい。
 そんな言葉知ったのはつい最近で。
 初めて家族に相談したのは小三。不器用な説明にママやパパにも理解してもらえなかった。
 もちろん、クラスメイトや先生にも。
 精神科に連れて行かれた。何度も。
 お前はおかしいと言われた。
 きっと、「性同一性障がい」が世でマイナーな存在だったことも原因かもしれないけど、俺の親の場合、理解しようともしてくれなかった。
 でも。
 綾奈だけは。
 ただ一人、俺を受け入れてくれた。
「そっか。夕凪《ゆうな》は間違えちゃったんだね」
 名前を夕凪じゃなくて『ユウ』と呼んで欲しいと言ったときも。「障がい者じゃん。ヤバ」「気持ち悪っ」「意味わかんね」と言う奴が殆どだったが「分かった。いいよ」と反論せずに受けてくれた。
 一番近くにいたのが綾奈で、助けてくれたのも綾奈だった。
 そんな俺の八年間の初恋は片想いで終わった。
 しょうがなかったんだ。
「私、金城くんが好きなの」
 今までのお礼だと思えば、諦めるしかないじゃん。
 綾奈は悪くないんだ。
 『約束』だって、ただの幼稚園の頃のだもん。
 分かってたけど。
「告白しようと思う」
 そのとき、俺は笑顔で「絶対成功するって。お似合いだよ。応援してる」と言った。
 最低だ。
 思い出しただけで腹が立つ。
 俺の醜い部分。汚い心。
 金城への嫉妬。
 失敗すればいいのに。
 応援なんて、ばかげてる。
 約束、忘れたのかよ!
 OKされるはずない。こんな地味なやつ。
 そんな想いがぐちゃぐちゃに混ざって、愛を醜く歪ませていった。
 本当は成功するだろうってどこかでは思っていた。だから、だからこそ、素直に応援してやれなかったんだ。
 ーーなのに。
 まさか、そんなことが。
 バレンタイン。
 昇降口で綾奈は金城を呼び出した。
 俺には「北校門にいて」と言った。
 でも、あまりに遅い。
 心配になって昇降口に戻ろうとした。その途中、西校門から出て行く金城らしき人を見た。
 駆け出した。
 綾奈……
 下駄箱。
 上履きのまま、床にへたり込み俯く綾奈。
「金城くん、ショートの子がタイプなんだって」
 そう言って昨日、ずっと伸ばしていた髪を肩までばっさり切った。
 むかついた。
 自分に対して。
 あの時、素直に応援してやらなかったからだ。と思った同時に、嬉しい、とも思った。
 そんな自分が大嫌いだった。
 でもその怒りをぶつけたのは金城で。
 よくも綾奈を傷つけたな!
 泣かせやがって!
「綾奈、」
「先帰ってて…気にしないで。ユウは金城くんとは友達でいてね」
 好きな人の頼みだ。聞く以外の選択肢はなかった。



 退屈な授業。
 当たり前のように漫画を読む。
 しばらくして、先生《じじい》にチクる隣の席のクソ女。
 女子の方が人数が多いからってクズ女と女子二人席にされるのなんてマジで最悪。
 漫画を取り上げるじじい。
 クラスはざわつき、じじいは俺に何か言う。
「ふざけるな!」
 俺はいったって真面目ですよ。
「何でお前はそんなに周りを困らせる!?」
 うざ。
 別に俺が漫画読むことで周りを困らせてないだろ。
「チッ」
 バン!
 俺は拳で机を叩く。
「うるさい!」
「先生の方がよっぽどうるさいっすよ。」
 じじいの怒りは頂点に達したらしい。
 袖を掴まれる。
 誰かが職員室に電話をかけている。馬鹿らしい。良い子ぶっちゃってさ。
「やめろよ先生。服伸びちゃうでしょ」
 誰かが隣のクラスに行く。
 先生は俺の腕を掴み、どこかへ連れて行こうとする。
「パワハラって言葉知ってます?」
「お前みたいなやつがいるせいで!!」と怒鳴られる。
 そうです。俺みたいな屑は生まれてくるべきじゃなかった。
 俺は先生の腕を掴み返す。
「先生、落ち着いてくださいよ。高血圧で死にますよ」
 淡々とした口調で話す。あえて怒りを煽る。馬鹿らしい。可笑しいったりゃありゃしない。
「出たよ。でしゃばりやがって」
「キチガイ」
「社会の障害物は授業まで妨げんのか」
「授業妨害」
「脳みそ崩壊してんじゃね?」
「社会非適合者」
「まじ言ってやりたいわ。たいそう賑やかなご様子でいらっしゃいますところまことに恐縮でございますが、ご逝去あそばしていただければ幸甚に存じますーって」
「もう言っちゃってんじゃん」
「ははははは」
 クラスメイトから汚い言葉を投げかけられる。
 すると隣のクラスから若い男が来た。厄介だな。じじいよりは力が強そうだ。
 三組から数人野次馬が廊下に出てきた。
 後から一人、ドアからこっそりのぞく。斉藤だった。
 悲しそうな目。訴えるように見てくる。
 見んなよ。
「ユウ、やめなよ」
 後ろで綾奈が言う。
 うるさい、うるさい、黙れよ。
 どうしようが俺の勝手だろ。
 俺のことなんか放っておけばいいのにさ。なんでいちいち絡んでくるんだよどいつもこいつも。相手の都合の良いときに絡んできたかと思ったら、なんで否定するんだよ、邪魔するんだよ!
「やめて。ユウ」
 人生まともに生きたってしょうがないんだよ。
 それに俺の人生はもう、がたがただ。間違えてしまったせいで。
 中学ではやり直すとか言ってるけど正直、無理。
 極普通の男に生まれたかったよ。
 心も、身体も。
 ごめん、綾奈。
 その後、お母さんに精神病院にぶち込まれた。
「自律神経失調症です」
 ふざけてんだろこのヤブ医者。
 精神安定剤を山ほどお土産に家に帰った。
漢字(かんじ)