その時、突然目の前に現れた光の玉に驚き、アニエスは思わず足を止めた。
「な、何ですか?」
 見慣れた光の玉は恐らく精霊だろう。
 だが、庭や自室以外でその姿を見るのはかなり珍しい。

「どうしました?」
 何かを伝えるかのように点滅したりくるくる回ったりと、光の玉は忙しなく動いている。
 放って置くわけにもいかず困っていると、回廊の奥からクロードが追いかけてくるのが見えた。
 何の用かは知らないが、今は会いたくない。

「精霊さん、ちょっと後でお願いします。今は急いでいるんです」
 突っ切ろうと思って足を動かすと、光の玉はアニエスの顔めがけて飛んで来た。

「――きゃあ!」
「アニエス!」

 びっくりしてのけぞったせいでバランスを崩して後ろに傾いた体が、何かに支えられる。
 甘い果実のような香りが、アニエスの鼻をくすぐった。
 転ばなかったのはありがたいが、これはやはりあれだろうか。
 恐る恐る背後を見てみれば、そこには予想通りの花紺青の髪の美青年の姿があった。


「大丈夫か?」
「は、はい」
 もう会わないと言って立ち去ったのに、転びかけたところを助けられるとか、恥ずかしすぎる。
 それに、好意を自覚してしまえば鈍色の瞳は爆弾と同じ威力なので、直視するのも困難だ。

「ありがとうございました、殿下。それでは失礼します」
 アニエスは目を伏せつつ、距離を取ろうと試みる。
 視線が下がった結果目に入ったクロードの手には、こんもりとしたキノコの山が揺れている。

 さすがに鼻に生えたコウボウフーデはないが、ナラターケはそのままだ。
 これだけのキノコが生えれば嬉々としてむしり取るはずなのに、どうしたのだろう。
 好みのキノコではないのだろうか。

「待て。話があるんだ」
 離れようとするアニエスの腕を掴んだせいで、クロードの腕には早速キノコが現れた。
 赤褐色でウサギの耳のような形のキノコは、ミミブサターケだろう。
 だが、クロードはキノコをむしるどころか、視線すら動かさない。
 キノコの変態の珍しい様子が少し怖くなったアニエスは、一歩後退った。

「話すことは、ありません」
「俺はある。部屋が嫌なら庭でいい。頼むから、話を聞いてくれ」
 腕を放してくれないし、真剣な様子からして、断るのは難しそうだ。
 何より、クロードと一緒にいたいという気持ちがあるのだから厄介だ。
 だが部屋に二人きりというのは、好意を自覚した今のアニエスにはつらい。

「……庭、なら」
「ありがとう。こっちだ」
 安堵の表情を浮かべると、クロードはアニエスの手を握って歩き出す。

 腕にはミミブサターケがポンポンと生え、ちょっとした飾りのようになっているが、クロードはやはり気にすることもなく進んで行く。
 キノコの変態なのにキノコをむしらないとは……具合でも悪いのだろうか。
 心配になってクロードの顔色を見ながら歩いていると、人気のない庭にたどり着いた。



 そこは舞踏会の会場に隣接した庭ほど広くはないが、綺麗に手入れされた花々が美しく、甘い香りがあたりに広がっていた。
「ここは王族専用の庭だから、今は誰も来ない」

 クロードはそう言って庭の小道を歩くと、四阿(あずまや)のベンチに腰かける。
 手は放されたが、一人で立っているわけにもいかず、アニエスもクロードから少し距離を取って座った。
 鈍色の瞳がじっとアニエスに向けられているのでどうにも落ち着かず、誤魔化すように口を開く。

「それで、何の御用でしょうか、殿下」
「名前を呼んでくれと言っただろう、アニエス」
 寂しそうに眉を下げるクロードに、少しばかり罪悪感が生まれてしまう。

「契約も終わりましたので、けじめをつけなければいけません。あなたは王族で、私は伯爵の養女です。当然のことだと思います」
「俺が望んでも?」
 首を傾げるのは反則だ。
 見たら負けだと思い、アニエスは視線を逸らした。

「命令とあれば従います」
 王族と臣下なのだから、命令ならば従う。
 本来アニエスとクロードはそういう関係性であるはずだ。
 だが、クロードは目を伏せるとため息をついた。

「……アニエスに命令なんて、したくない」
 小さな声でそう言うと、手や腕に生えているキノコをむしり始めた。
 腕のキノコをむしり終えてベンチの上にキノコの山を作ると、クロードはアニエスに顔を向けた。


「俺が(つがい)を見つけたと言っていたよね。兄上が教えてくれたと。……何を聞いたか教えてくれる?」
「番を見つけたらしいと教えてくれたのは、フィリップ様です」
 アニエスが答えると、クロードの眉が顰められた。

「王太子殿下は、『ようやく言ったのか。早く言わないとかえって揉めるし、失礼だ』と。なので、真実であると判断しました」
「それで、何故帰ろうとした?」
 既に話したことなのに何故そんなことを聞くのだろう。
 あまり楽しい内容ではないので、できれば言いたくないのだが、仕方ない。

「契約は終わりましたし、殿下が番を見つけたのなら、私はただの邪魔者です。一緒にいる意味がありません」
 事実を告げただけなのに、アニエスの心が少し重くなるのを感じた。

 これは、重症だ。
 早く家に帰ってベッドに潜り込んでしまいたい。
 落ち込むアニエスの横にあったキノコの山をどけると、クロードが隣に移動してきた。

「それなんだけど……番は誰だと思っているの?」
「わかりません」
 クロードの運命の相手は誰だか考えろなんて、なかなか酷い質問だ。
 このままでは涙が浮かびかねないので、早々に話を切り上げてほしい。

「自分だとは思わない?」
 その一言に、アニエスは目を瞠った。
 アニエスにわざわざそう言うということは――まさか。


「……殿下の番は、キノコだったのですか」
 初対面の赤いキノコ……ベニテングターケにプロポーズするのは聞いたが、魂の伴侶までキノコとは。
 これぞまさに、運命の赤い菌糸。

 ということは、アニエスはキノコに負けて失恋した女なのか。
 何だか、切なくなってきた。
 どうせ負けるのなら、キノコよりは美しい御令嬢に負けたい。

「――そんなわけないだろう。アニエス自身という意味だ」
「まさか」
 クロードの世迷言を聞いたアニエスは、自嘲するように笑った。

「何故そう思う?」
「フィリップ様の騒ぎの時に、殿下が仰ったではありませんか。ひと月もあればわかっているはずだと。殿下とお会いして半年経ちます。私ではあり得ません。殿下が黒髪の御令嬢と親しくお話されているのも見ています。あの方が番なのですか?」

 別に、今更隠さなくてもいいと思う。
 アニエスとしても、キノコに負けた女でないなら、もう何でもいい気がしてきた。

「……見てもらった方が、早いな」
 クロードはため息をつくと、そう呟いた。



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【今日のキノコ】
ナラタケ(「愚かな想いが育つ前に」参照)
淡褐色の傘を持ち、束生と群生が得意な食用キノコ。
『木材腐朽菌倶楽部』の代表で、生立木の根に寄生して枯死させるほどの実力者。
アニエスの足を止めるために、精霊にSOSを出した。

コウボウフデ(「愚かな想いが育つ前に」参照)
青灰色の棒の先端が潰れたような形の、非常に珍しいキノコ。
固い柄もしっかりしていて、名前の通り頭部の胞子で紙に文字を書く事ができる。
鼻に生えたので邪魔&不安定だったせいで、クロードに早々にむしり取られた。
ポケットの中で事の成り行きを見守っている、傍観者キノコ。

ミミブサタケ(耳総茸)
赤褐色で、ウサギの耳のような形をしている珍しいキノコ。
食用に向かないとされているらしいが、美味しくないということだろうか。
「クロードの話を聞いて」とアニエスに訴えるために生えてきた、お節介キノコ。